持続可能な農業-ハイチの希望(Deer)

「一つの不幸が来れば、前の不幸が押しやられるとよく人は言う。そしてジャーナリストたちはいたずらに他所に駆けていく。」

   ハイチ人の作家、ダニー・ラファリエールは、ハイチ震災日記の最後ページにこう書きました。しかし、いたずらに他所に駆けて行かないジャーナリスト・ジャーナリズムがあります。ハイチを裏庭と呼んでいるアメリカのニューヨークタイムズ(NYT)です。

   NYTはハイチ地震を発生時からその詳細を伝えてきています。私のハイチの地震に関する情報のほとんどすべてがNYTに依っています。現在はNYTの定期購読者として、毎日e-mailが配信されていますが、その上 alert と称する特定のテーマについてのニュースや情報の配信システムがあり、そのうちのハイチ関係と災害関係(特に日本の災害関連)にalert nameを登録しており、このalertが主なニュースソースです(前者がHaitiKen、後者がdisasterKen)。

  ハイチ地震二周年ということもあるのでしょう。特にHait alert はこのところ四五日おきに配信されてきています。

  カナダを拠点しにして、テレビのラジオのホストや脚色またジャーナリストとしても活動しているダニー・ラファリエールに、この例外的存在のNYTを紹介しようと彼のブログを検索してトラックバックをつけようと試みましたが残念ながらみつけられませんでした。これまでハイチの情報そのものはNYTで収集できましたが、ハイチ人個人については日本の関係者以外はおりませんでしたので是非生の声などを聴きたいと思っていたのですが。

   でも一つだけ見つかりました。ラファリエールの『帰還の謎』は、二〇〇九年にフランスの メディシス賞を受賞しています。この作品は、父の死をきっかけに、作家が故国に帰るという、散文詩を織りまぜた自伝的な物語です。彼はこの作品について語っています。フランス語で翻訳する力はありませんが、内容などについてのコメントです。ラファリエールは同僚がデュバリエ独裁政権に殺害されたために23歳でカナダのモントリオールに亡命。その後ハイチのディアスポラ(離散移住者)となりました。その厳しさが表情に表れているように見えます。

   イントロが長くなりました。

   NYTの記事で注目しましたのは、「ハイチは再び豊かになれる」と題した読者の投書です。読者といっても「ハイチ:歴史の余震」の L. デュボアと「奴隷の物語を越えて」の D. ジェンソンの二人の作家になる投書です。二人は米デューク大のハイチ人間性(humanities)研究所の共同ディレクターです。

  この投書を要約してお伝えしましょう。

ハイチは「西半球の最貧国」ではなかった。悲惨な地震後の二年が経ち、政治の混乱、コレラ蔓延、いまだに高速道路脇の間に合わせのテントに多数の難民が住んでいる。だがほぼ19世紀中のハイチは農業革新、生産性と経済的成功の地であったことが忘れられている。地震を契機にして、よリよき未来の基礎を築く必要が語られてきている。

ハイチはかつて尊厳あるハイチ人、自主と富をもたらした小規模農場システムと分散経済であった。奴隷制からの解放を成し遂げた1804年の独立は反大規模農業(反プランテーション)システムの創出に導いた。奴隷として島民はサトウキビを収穫しながら、自分の小さな農園を耕して自活し、持続可能な農業と呼ぶべき相互収穫(inter-cropping)の洗練された農業技術を発展させてきた。これは多品種を近接して植えこみ(混植)収穫する農法である。解放後のハイチ人は、家畜の飼育、果物の生育、根菜類、輸出用のコーヒーさえ世界市場に供給する知識を獲得した。彼らの小規模農場は奴隷時代のプランテーションへの解放後の復帰可能性に先んじたのである。

  アメリカは1862年までハイチを認めなかったが、米商人はこの島国と熱心に貿易を行った。ハイチ経済は11の大きな自治領域で港があり、国内の軋轢や中央政府の統制、税制 、外国商人のパワーなどによる農民の搾取があったが、地域経済は生き延び、地域政治と軍システムが多数のハイチ人の命運を確かにした。

  1920_sunday_book_review20世紀になり、アメリカの占領で、外国人による土地所有を許す憲法修正を行わせ、首都中心の経済集権で、小規模農場はプランテーションに変えられた。多くの農民は土地を取り上げられる結果となった。これに対する反抗にアメリカは憲兵隊の創設で対抗。ハイチ人は都市やキューバ、ドミニカ共和国に逃げ、地域の環境と経済が悪化し、国外大移動(エクソダス)が起こり、首都ポートプランスは過密都市となり、また ハイチの食料の半数が輸入されている。

 上の写真は1920年、米海兵隊がハイチを占領してハイチ人兵士を訓練している図(共同筆者のL. デュボアの「ハイチの悲劇的歴史」の書評から)。アメリカはベトナム戦争でベトナム兵士と農民の区別がつかずに村全体の焼失まで行ったが、ハイチでは反抗者を匿っているとして同様の所業をすでに行っていたのです。

ハイチの地震は金の流れをハイチにまた小規模農場システムの再生の機会となりえる。ハイチの新大統領(旧歌手)、M.マーテリー は経済の脱集権化の必要を語り農民を支援するプロジェクトを始めた。これ以外にもできることはある。

農村経済への投資は自身を生み、都市の危険な過密を緩和し、特に慢性化した栄養不足や食料不安を終わらせよう。

ハイチ人が2012年に再建する最良の青写真は、彼らの誇る力強い歴史から描かれるであろう。

  これはハイチの希望の青写真といってよいでしょう。ハイチの公用語クレオール語(ハイチ)で希望はDeer(ディー)です。2004年、ハイチの貧民窟の育った双子兄弟の兄エリクソンは「僕はDeerを捨てない。生きているかぎりDeerがあるから」と話していました。そのDeerが叶えられうる具体的な希望への機会が訪れているのでしょう。

  希望に実現への道のりは決して平らではないでしょうが、すでに始まっているNyt
ようです。

  「ハイチの持続可能な栄養を作る」と題するNYTの記事では、栄養たっぷりなピーナツバター用の国産のピーナツで仕分けているハイチ女性の写真が掲載されています(左 2011/11/1付)。

    「地震被災の国が田舎の道の復旧の試み」では、32歳の前店主がトマト農園を開き「もうポートプランスには戻らない。ひどい苦痛ほもういやだ。この仕事はきついが完璧な平和な生活がある」と語っています。

  Nyt2011_12 この記事にはハイチの少女が村で料理を手伝う姿の写真が載っていて、そのキャプションは:蘇る田舎のハイチの村は国の輸入食品への過度の依存から引き離すことになるだろう-(右 2011/12/24付)。希望を感じさせる、ほほえましくもいい光景です。

   ハイチ人には近年発展を続けるブラジルが、厳しいながらも働く便宜を与えています。ハイチからバスで隣国のドミニカ共和国へ移動し、飛行機でパナマエ、ついでエクアドルにそこからペルーに、そして徒歩でボリビア、そこからブラジルのブラジリアへ。妻子を連れた職を求める長旅は容易ではありません。

   ブラジルはアマゾン地区の開発で建築労働者不足し、地震後の二年間で約4000人がのハイチ人がブラジルに移住しています。

  ブラジルはハイチに恵国待遇を与えています。パキスタン人やインド人には就職の機会が与えられていません。ブラジルは極度の危機に瀕しているとしてハイチに人道的支援を与えていると当局者が語っています。

  ダニー・ラフリエールは、ブラジルとハイチは、コーヒー、サッカー熱とヴォドォ(ブードー教)の三つの共通点がある。ハイチ人がアフリカから持ち込んだヴォドォは、ブラジルではヴォドォのヴァリエーションであるカンドンブレでこれが流行っているといいます。ハイチ人はハイチとのサッカーでさえブラジルを応援するそうで、ブラジルのハイチびいきは人道的配慮だけではないように思われます。

  一方でハイチの地震後の大きな希望の一つは暫定ハイチ復興委員会(I.H.R.C.)です。I.H.R.C.はクリントン前アメリカ大統領とハイチ首相が共同議長。I.H.R.C.のミッションはハイチ復興で、被災者の3万人のテント生活者への住居の供給、教師教育等のプロジェクトの計画と促進と協力などです。

  資金提供は2国間、多国間、NGOや民間、世界銀行などですが、大統領の交代やその力量不足などでプロジェクトの進展は遅れてほとんどが完了しておらず。またたは十分な資金提供がなされていません。

  しかもこのI.H.R.C.の支援期限が昨年の10月21日に切れて、マーテル大統領はハイチ議会で期限の延長に失敗しています。資金量といえば世銀が住宅や教師教育、生徒等への給食に約180億円を承認、また供与が36億円などの額です。

  とはいっても、この2年で進捗を示したものがあります。27万立方メートルの瓦礫の半数が首都などから撤去され、多くの国民が地震以前より清浄な水を使えるようになっています。韓国の衣料メーカーの投資で工業団地が造られ2万人の雇用が約束されています。ハイチ政府はポートプランスからの再定住のための恒久住宅や職の供給の国家戦略が求められているのです。

  その方向は先の投書に書かれた19世紀の小規模農業の分散による自律経済と符号し、重なるところがありますが、その実現には多くの乗り越える課題が横たわっています。

   ハイチはアメリカの「裏庭」の小国です。その行く末は、強力な金融資本や投機資本が支配する世界経済の中で、どのように小規模農業や小企業中心の経済社会を創造し維持していくことができるかが大きな課題です。

  ハイチでは西欧の列強が市場経済中心ではなく、ハイチ人の人権問題としてハイチ経済を認め支援していく姿勢が欠かせないのではないかと考えます。

  1920年代のアメリカのハイチ占領の時代は決して繰り返されることはないでしょう。アメリカの覇権主義は確実に弱まり、イラクに続いてアフガニスタンから米軍の撤退が始まっています。これもまた希望だと言っては皮肉がきつ過ぎるでしょうか。

 

阪神淡路大震災の日に

   Photo今年も阪神淡路大震災の日がやってきました。17年前の1995年1月17日午前5時46分。ハイチ大地震の日付に遅れること5日。

  阪神淡路大震災、ハイチ大震災と3・11大震災の犠牲者の方々に、黙とうを捧げます。

  阪神大震災で、明瞭に思い出すのは地震後の火災で、黒い煙が空高く昇っていく映像です。

   と同時に一昨年2010年1月12日のハイチ大地震に火災がなかったことを示した、宇宙から撮影されたグーグルの写真を思い出します。

  ハイチ地震が火災を免れた理由は、貧しさから森林の木を切りつくしてしまい、ほとんどすべての建物が石材やコンクリートで造られていたからでした。

  しかし火災がなかったものの、違法建築物や手抜き工事で多くの建築物が崩壊し、その下敷きになって30万人以上の死者がでました。しかし裕福層の住む地域や高台などでは崩壊した住宅がほとんどなく、被災の貧富の格差による耐震性の建物の差があらわになりました。

   阪神大災害では、ほとんど同じスケールの地震でしたが、死者約6千人、全半壊家屋は約二十万戸、また緑豊かな日本の木造の住宅が火災で多くが焼けました。

  ここにきて東日本大震災の後にくる大震災は、南海、東南海と東海の連動大地震といわれ、また千葉沖や立川断層、また直下型東京大地震がいつ来てもおかしくないと喧伝されています。

  私の住む地域には、北西から南東に東京湾北縁断層が横たわっています。阪神大震災後、この断層の調査についての講演会が市川でありました。その結果、半分は活断層ではないことが分かった報告されました。残り半分は未調査でおそらく活断層ではないとの話でしたが、是非調査を継続し結果を知らせてくれるように会場で依頼しましたが、その後連絡はありません。

  地震の予測はほとんど不可能で確率を示すことは無意味と海外の専門家の意見がありますが、文科省は意味を強調しています。

  いずれにしろ、いつ起こってもよいように準備するしかないのでしょう。

  ではさて、国、自治体、自治会などに十分な準備があるのでしょうか。自治体の防災訓練は毎年行われており、自治会の広報を担当する者として昨年も参加しました。会場の小学校の備品倉庫には食品などが備蓄されていましたが、梱包の段ボールには品名が書かれておらず、実際に使用する場合の混乱が懸念されると参加者同士で心配しました。しかもこの小学校はいまだに耐震基準を満たしておらず、補強工事はこれからだと言います。

   Img_4603とすれば、地震に備えるには個人レベルで、できるだけ被災を最小にすることが重要になってきます。

  いわゆる災害における公助、共助が不十分なので私助の役割が大切になっているのです。

  というわけでもありませんが、阪神淡路大震災を見てあわて、毎年1月17日を防災の日として、個人レベルの行事を行ってきました。

  毎年この日は、防災品の点検を兼ねて防災用に準備した食品と水だけで生活することにしました。

  上の写真が台所の食卓の一コマです。ままごと遊びのようなものですが、火源は卓上のプロパンコンロ。鍋の上にインスタントのご飯を湯煎で戻しているところです。水は風呂一杯分、約200リットルを屋外のもう一つの、今は使わなくなった風呂に貯水してあり、これを炊事や皿洗い、歯磨きや顔洗いなどに使います。副食は缶詰類に頼ります。

  さて照明ですが、携帯電気ランプ数個に、ラジオ兼電燈と警告アラーム(赤いセット)があります。これは自治会で配布。他の電気製品用の電気は、日中で太陽が照っておれば太陽光発電機の電気が一時的に使用できます(まだ試しておりませんが)。むろんこれだけでは不十分で、最低三日間分程度の備蓄がなくなれば、後は公助頼りになります。

   というのが実情で、もし災害に備えるアンケートが配られ準備状況を問われたとしても、まだ不十分と答えることになるでしょう。

  しかもこれらの準備の前提は、建物が全半壊しないで使用可能な状態にある場合です。この住宅は旧建築基準法で設計施工されていましたので、阪神淡路大震災後の新建築基準法に合わせた改造を行いました。これで火災を起こさなければマグネチュード7程度の地震には耐えるはずです。

  3・11のマグネチュード9には耐えないでしょうが、どの程度までかは震度と建物の建っている地盤の強さがものを言います。

  地盤については、改造時にはボーリングによる地盤調査が行なわれ、弱くはないという結果でした、これに先だっては船橋市役所で耐震診断をしてくれるという話通知があり、近所の方と頼んだのですが、図面を見ただけで問題ないということでした。これは頼りにならないと、たまたま「暮らしの手帳」耐震補強をされた記事を読んで補強をすることにしたのです。

  地盤の強さは調査以外に、地震の際に、公表された震度と実際の体感震度と比べる方法があります。ニュースで公表される震度は基準点の震度で、建築物下の土地の地盤とは異なることがあります。

  この地盤の実際の強さの判断はここ十年以上行ってきました。3・11の地震でも船橋地域は震度5とされましたが私の体感では4程度で、切り土の上の建物でもあり、公表の震度以上に耐えるはずと判断しています。

 マグネチュード8までは耐えてほしいと思いますが、化学・物理実験のような実験ができません。後はケセラセラで、準備しないよりはましと覚悟しています。

  会社勤めを終え、自宅や近辺が行動範囲なので、震災のリスクは現業の方より小さいと思います。

  先行き短い高齢者よりは、通勤通学などをされている市民に対する防災のシステムの向上が喫緊の課題です。

  元日にはかなり大きい地震があり、震源地から近いところの揺れが小さかったといいます。その記事を読んでいる時刻の正午半ば、震度2の地震を感じました。

  災害列島ニッポン。寺田寅彦は、

「いつも忘れがちな重大な事柄がある。それは。文明が進めば進むほど天然自然の驚異による災害がその激烈の度を増すという事実である」

と書いています(随筆「天災と国防」 昭和9年11月 経済往来)。

  3・11では、文明の最先端の原子力利用の原発の事故が加わりました。

   天災も備えがあれば災害とはなりません。天災か人災の区別はその準備にあるとの認識が必要だという意味のことを友人の一人が強調しています。その準備は社会全体の準備であり、また個人の準備も重要です。

  個人の準備は経済の許す範囲や生活の余裕にも左右されます。高齢者や子どもたちなど弱者の被災が大きくなりますが、一方で在宅が長い高齢者が助かる場合も出てきます。災害の程度は輻輳しています。

  いずれにせよ被災者の「眼」に立ったと防災、減災と救援が肝要です。

  阪神大震災について書く必要を思って書き始めたところほとんど個人的な事柄中心のブログになりました。

  乞うご容赦。

ハイチ震災日記

  4二年前の1月12日、午後4時53分、地球の反対側の熱帯の島国、ハイチの首都ポルトープランスをマグニチュード7.3の大地震が直下から襲いました。(右上図のこれまでに襲った地震は2010/4/4のブログから)。

  ハイチの大震災についてはこのブログで12回ほど投稿していますが、この震災に関心を抱いたのはほかでもありません、間もなく記念日が巡ってきます1995年1月17日の阪神淡路大震災です。この地震では5千人の方々が犠牲者となりましたが、ハイチでは30万人以上が犠牲となったと推定されています。

  我が家では毎年1月17日は震災に備える日として、防災用に準備した食料と水だけで一日を生活しています。ガスは使わず、携帯コンロが熱源。ただし電気は最小限の範囲で使用します。 足りなくなれば補充します。

   そこに昨年の三重災害の3・11です。この災害の記録として、美術作品や文学、音楽等をまとめることにしました。かなり集まったところでハイチ地震の記念日となり、たまたまハイチ出身でカナダに住む作家、ダニー・ラフェリエールの「ハイチ震災日記」を入手しました。

  原題は「私のまわりのすべてが揺れる」です。彼は偶然にも母と兄弟の住むハイチのホテルに滞在していて震災を経験したのです。この本は「日記」と日本語の訳書にありますが、日付があるわけではありませんません。単なるルポルタージュでも、またメモでもありません。_2011_10_2(写真は2011年10月に訪日したダニー・ラフェリエール)


  この「日記」は、彼の地震の経験をほとんど時系列的に、あるいは詳細に、また簡潔に描写。その背後の事情や歴史、また洞察やアフォリズム、箴言を鏤めた、文学作品です。あるいは散文詩とも言えるかもしれません。

   今回はラファイエールの「日記」の地震後の一年間のハイチの地震とし、次回は地震二年後の新たな「ハイチの希望」への現状をNYTのニュースから紹介しましょう。

   文学作品ではプロットやあらすじを示してもほとんど意味をなしません。しかし彼の作品のキーとなる文章を紹介し、彼の感性の一部でも伝えることができないかと考えて、紹介してみることにしました。

  ダニー・ラフェリエールは1953年、ハイチの首都、ポルトープランス生まれで59歳。大の日本贔屓です。作品には「吾輩は日本作家である」(2008年)があり、1985年には「二グロと疲れないでセックスをする方法」で話題を振りまいたと訳者の解説にあります。一方で芭蕉を敬愛してやまないともあります。彼は新しい時代への眼差しを持ち、、日常生活に潜んでいるものの見方を問いただす次元がいつでも開かれているとも書いています。この日記を読むと感じとれます。

  書の冒頭の詩は「私の部屋の中の日本」-日本の読者へ です。

  数ページの長い詩。その中に、

      ハイチ人の誇り

     日本人の落ち着き

     最悪のカタストロフィーに立ち向かうには

     桜の気品がいい

     -------

     昨年はハイチ 今年は日本

     ポルトープランスの地震を知った私は

     日本作家である

     もはや部屋から動くまい

   たんなる日本びいきではありません。

   続いて百三十の「日記」の中から数編キーと思われる断片を選びました。最後がちょうど震災から一年目の「日記」です。

一分間という時間

(ホテルのレストランで)私がパンを齧りかけたとき、ものすごい爆発音がした。

ーーーー 一分ほど続いただろうか。そこに留まるのかどうか決断しなくてはならない。それも八秒か十秒のうちに。(同じ場にいた文芸批評家のトマス・スピア)は、ビールを飲み干そうとして貴重な三秒を失っていた。ーーーみんな腹這いー。 爆発というより内側から破裂して、腹の中に人間たちを閉じ込めていった。

静けさ

   旅のあいだ、私はつねに黒い手帳を身につけて視界を遮るものならなんであろうと書きつける。ーーー地面に伏せた姿勢でカタストロフィー映画を思った。

  --ー地面がいまにも裂けて、呑みこんでしまわないかと震えた。子ども時代の恐怖が蘇ってテニスコートに逃げ込んだ。だが何も聞こえなかった。耳をつんざくばかりの静けさ。ハイチでは、喚声がここえないかぎり死者は出ないと言われている。---あの日の夕刻、地震の揺れが四十三回も続いたというのに。

  いまでもあの静けさが耳に残っている。

もの

  敵は時間ではない。--ものを持ち出そうとするや、きりがなくなってしまう。生活の論理とはそのようなものだ。よくドアのすぐ傍で死体が見つかるのも無理はない。傍にスーツケースが置いてある。

祈り

  夜が不意に落ちた。熱帯ではいつものことである。人々は小声で悩み事を語った。---突然立ち上がった男がいた。そして説教を始めた。

  ーーー今度は少女たちが宗教歌を歌いだした。二時間ほどして、どこからともなく祈りや、歌を歌っているのが聞こえてきた。私の傍で女の子が明日学校があるの?と聞いている。幼児期の風が吹いているのだ。我々ずべての者の上を。

群衆

  最初の夜、街は折り目正しく、寛大で控えめな群衆で占められた。

---長時間飲まず食わずで瓦礫の下に閉じ込められている人に驚かれている。実は、ごく少量しか接触しないことに慣れているためもある。すべてを放置して歩き続けられるのは、ごくわずかしか所有していないからである。持ち物が少なければ少ないほど、人は自由なのだ。貧困を礼賛しているのではない。世界が感動したのはハイチの不幸ではなく、むしろ不幸を前にしての人々の姿勢なのだ。今回の震災がまぶしく見せている民は、国の制度が病んでいるために自己を実現できないでいる人たちだ。国家制度が一時的でも風景から消え去ったお蔭で、塵埃の降りしきる空の下に威厳ある人々が姿をあらわすのが見えたのだ。

革命

800kb  パレ・ナショナル(首都の大統領官邸)が倒壊した。税務署、裁判所が倒れ、商店は軒並み破壊されている。---囚人は逃げ出した。一夜の内に。

  革命だった(右は地震で倒壊した大統領官邸)。

パレ・ナショナルについては、もう一つの興味深い「日記」があります。

  最大の衝撃はパレ・ナショナルの倒壊ーー。戦争に敗れたかのようだった。宮殿の倒壊を悲しんだのはとりわけもっとも貧しい人々である。自分たちが所有者だといえる唯一の建物とみなしていた。どんな母親でもいつの日か自分の長男が「大統領の椅子」に座ることを夢見ている。

   それほどに奴隷から独立した建国の歴史を民が意欲を示し、隣国やフランスなどの干渉と支配と闘いながら、それだけ争いが激しくて安定に乏しいハイチなのでしょうーか。

十字に組まれた腕

   道の真ん中に立って腕を十字に組み、一人の女が天に向かって説明を求めている。家族全員を亡くしたとすぐに分かる。彼女には自分が救われたことがむごい仕打ちに見える。---どうして家族と一緒に死ぬことを許してくれなかったのかと。彼女は神を責めている。われわれは彼が去るのを待ってから、車を先に進めることだけだった。

文化

  人はあらゆる方法を使って脱出口を求めるものだ。私たちのまわりのすべてが崩れてしまったとき、残るのは文化だ。しかしこの都市を救ってくれたのは、彷徨を続けている民衆だ。(私に問いかけるジャーナリストに)、昔から素朴派の画家たちが教えてくれるものについて話した。画家たちは、周囲に悲嘆が満ちているときにこそ豊穣な自然を描いてみせることを選んだのだ。

   ラファリエールはまた、「ハイチは芸術を通して貢献するのだ。捨てたものではない」と提案しています。「古き知」では、素朴派の画家の色鮮やかな絵の中に、また溢れるばかりの喜びに、厳粛に響く引きずるような音楽の中に(ベック・エンの「ハイチの苦しみを歌う NYTニュース」)、苦しみを優雅な態度で内に秘めている人々がいる。しかも強い喜びが彼らに棲みついていると書きます。

意味論戦争

  (ラファリエールは、カナダに亡命しカナダ国籍を持っているので、カナダ大使館から出国の案内を受けとりますが、決断には時間がなく、便の提供は今回限りかもしれないと考えて決断し、飛行機の離陸直前にハイチを形容する新たな語のリストが付け加えられたことを直感します。)

  ハイチは、世界で最初に独立を果たした黒人共和国。---米大陸で合衆国の次に独立した二番目の共和国として見られてきた。---(ハイチは)ヨーロッパ最大のナポレオン軍との雄々しい戦いによって勝ち取られたのだ。私の幼年時代は、自由への欲求と蛮勇以外にはどんな武器も持ち合わせていない、奴隷たちの数々の物語が子守唄だった。私の祖母は夏の宵に、武器にしろ戦闘技術にしろ、全てを敵方から奪い取ることしかかった英雄たちの武勇伝をきかせたものである。フランス語さえも「戦利品」なのだ。

  だがハイチと言えば、貧困と腐敗ーーー。腐敗があるとしたらそれは国の指導者である。国民の四分の三は、不治の病のような貧窮に耐えて自分たちの尊厳を保っているのであり、そんな罵詈雑言を浴びされる筋合いは全くない。

   最貧国、確かに統計は示している。だが抹殺されてよいのだろうか。歴史を反芻してばかりいると非難されるが、他国以上ではない。

  -ーーところがあらゆる時代を通じて最大の植民地戦争だった戦争、奴隷たちが自らの意志だけを支えにして市民となった戦争を取り上げた映画は一本もない。

  ところが今やハイチを地中深く埋葬しようとする新たなレッテルが立ち上っている。ハイチは呪われた国であるというのである。ーーー二度の世界大戦を引き起こし、また貧困に冷淡で、自国の強力な金融街から地球を飢餓に追い込んでやまない国も呪われた国とはいわれない。悪気がなくて使っている人がいるのは承知している。

  この言葉は適切ではない。現代における困難極まりない試練の一つに立ち向かっているこの国の人々が示しているエネルギーと尊厳をみれば分かることではないか。しかし日一日とそれに抗して闘うのが厳しくなっている。(だが私は)それをくい止めるだけのエネルギーを内に感じている。

世界の優しさ(最後の「日記」)

  どこに行っても、私に声をかける人は声を低める。私を通してあの傷ついた島に向かって声をかけているのだ。しかし島は孤独感を強めている。ーーーー地震のあった夜、明日学校があるかどうか不安になった女の子。人々が私に話しかけるとき、その眼を見ると、死者に向かって話しかけているのが分かる。私は生きているのなら小さな蠅にも愛着を覚える。真に心を打ったのは、人々が自らの感動に感動していることであり、それをできるだけ長く保とうとしていることである。一つの不幸が来れば、前の不幸が押しやられるとよく人は言う。そしてジャーナリストたちはいたずらに他所に駆けていく。しかし、ハイチはなおも長く世界の心をとらえるだろう。

  この書の要約を書きながらダニー・ラファリエールから最も伝わってくるのは、母国ハイチの民衆の忍耐の強さと政治への参加と実践の讃歌であり、またそれを支える自由への希望です。

  ハイチの双子兄弟の兄エリックは、矛盾に満ちた苦難のハイチの中で、昨年、10年前と同じように「希望は捨てない、こうして生きているから。生きているかぎり希望はある」と語っていました。

  ラファリエールは、エリックを超えていく民衆の姿を、甚大な震災の被害との闘いの中に見出しています。 

  このような断片を連ねる形でラファリエールの書を紹介しては、彼のメッセージを歪めて伝えたことになった恐れがあります。是非原文をお読みくださるようお勧めします。

  ラファリエールを日本人作家であることを知るためにも。

 

 

 

 

 

 

内部被曝とチェルノブイリ事故

   26年前のチェルノブイリ原発事故に学ぶべきことがあるとわれてきましたが 、具体的な身近な食生活に関する本が出版されたので入手しました。

「自分と子どもを放射能から守るには」 ウラジミーミル・バベンコ+ベルラド放射能安全研究所(ベラルーシ)著) 世界文化社2011\800  です。

  チェルノブイリ事故ではヨウ素131で甲状腺がんになった子どもたちが多く発生しました。その経験と調査研究に基づいた本です。日本の今回の福島原発事故とは規模などが異なりますが、子どもを持つ親には参考になります。

  本には汚染された食品の具体的なあつかい方に加えて、肥田舜太郎先生が勧める免疫力については760kb、免疫力アップの食材の例を載せています(右)。

  この本を訳された辰巳雅子氏のブログにアクセスしたところ、NHKの内部放射能の番組に当たりましたので紹介します。

  すでにご覧になっているかもしれませんが、測定が困難な内部被曝を工夫をこらして明らかにしています。

  このチェルノブイリの例で初めて子どもたちの甲状腺がんと被曝の関連が明らかになりました。ただしこの報告では福島の子どもたちのこれからのリスクも決してゼロではないことが示され、今後十分な調査と研究が必要で、問題はこれからです。

  この番組でも年間放射線量の値について論じられています。100ミリシーベルト(mSv)か50mSvですが、 これの依拠する国際放射線防護委員会(ICRP)の勧告の根拠のなさが暗黙に問題となっています。

  日本の原発事故ではヨウ素剤の配布がほとんどなされず、批判されています。これを取り戻すためにも政府、自治体と研究機関の努力が待たれます。甲状腺がんは早期に発見されれば治療ができるといわれています。決して犠牲者を出すことは許されません。

書初め

  元日の新聞の一面のトップは、中立であるはずの内閣府原子力安全委員会の「安全委員24人に8500万円」。原子力関連企業からの寄付です。斑目委員長にも教授当時の400万円。委員長は「便宜を図っていない」。誰が信じましょうか。原発事故は起こるべくして起こったといえるでしょうーね。

  三日付の紙面の「再考エネルギー」(いずれも朝日新聞千葉版)では、かつての母校東北大で優れた業績を残した工学者の西澤潤一氏が、「原発は技術の問題ではなくて心がけの問題です。----」「------確かに原発は易しいことではないが、全くできないと思うほどのことはない」とのたまいます。

  工学的思考には、未来のリスクを背負ってしまう子どもたちなどの被爆者の視点は全くないのでしょうか。今回の原発事故では、有機農業者が自らの命を絶ち、「原発さえなければと」と書き残して酪農家も一人この世を去りました。

 

  毎年正月二日には書初めをするのですが、今年は年明け早々、論考の準備などで忙しく、三日の今日になってやっと書けました。書初めは例年の正月飾り(ディスプレー)に貼りました。

   2012_1_3_900kb_2
   書初めの文字はほとんど考える必要もなく

 「闘放射能」

   
  自分の姿を人前に写真でさらすことはしてきませんでしたが、今回は最初にして最後のものになるでしょうか。

  着ている和服は一昨年に102歳で亡くなった母が縫ってくれたウールの着物です。正月になるとつい着てしまうのは冬知らずといえるほど暖かいし、洋服を着るより、襦袢も羽織も一緒にして一回で着付けが済むので、簡単という単純な理由です。

  今年は放射能と和服という奇妙な取り合わせの正月になりました。多くの水彩画を残していってくれた母はどう見ていることでしょうか。

   正月飾りは近所の傾斜地から葉を落とした落葉樹を一枝戴いて、十二支の動物たちを飾っています。今年は鍾馗の凧も飾りました。鍾馗は中国の疫病を防ぐ鬼です。孫たちのこれからのリスクを減らしてほしいという願いを込めました。

   この凧の左上には災害で亡くなられた多くの人々を悼む黒い喪章を付けました。

  今年は短いブログにしようと的を絞りましたがやはり長く重いものになりました。

  今後は今回のようなスタイルで続けようと思います。お付き合いください。

 

 

春を恨んだりはしない-震災を巡る

セシウム  想像だにしなかったマグニチュード9の大地震と津波に人災の福島原発事故が起こった年がやっと明けましたが、被害はまだ続いています。特に原発事故がまき散らした放射性物質による低線量の被ばくが姿を現すのはこれからです。

  それぞれに様々な被害と感慨をお持ちのことと思います。このブログでは美術や文学、音楽などの芸術の世界で表現された作品などを、順不同で一つづつ取り上げてみたいと思います。

322kb  手始めは、池澤夏樹の「春を恨みはしない」(中央公論社 2011年9月刊)です。ご存知のように世界の多くを旅し、またギリシャやフランスにまた沖縄を住まいとしてきた作家です。この大震災には幾たびか被災地を訪れ、3・11以後はこの一冊に震災の全体像を描きたかったと書いています。

  この本への批評はすでに東京新聞などに載っています。

  ここではかつて物理学の学徒であった知識と経験に基づいた章の「昔、原発というものがあった」から放射能への意外な見方を紹介させていただきます。

  その一つは安全神話についてです。

  当然安全であること自明とする、例えば航空機についてことさら安全性を声高にPRすることはない。つまりは架空の安全神話を作ること自体がその正体を暴露しているということです。

  更に根源的なこととして、原子力は原理的に安全ではない。端的にいえばそれは、ふだんの生活や生物の営み、大気の循環などの自然現象に至るまで、原子レベルでの質量とエネルギーのやりとりに由来するのに対して、原子力はその一つ下の原子核と素粒子にかかわることからくるのだろう。これを我田引水で応用化学を専攻したものから見れば、原子力の世界は、物質の変化が不変の元素とその化合物の間のやりとりに依存する化学結合論とは全く異質の世界であるということです。

  古代ギリシャ時代の自然哲学者のエンペドクレスは物質は火・木・土・空気の4大元素からなり、それらが不変で離散・集合を行い、決して新生も消滅もしないとしていました。ところがエンペドクレス後の約2400年後、その元素が崩壊して別の元素に変わり、しかも生物に有害な放射線を放射することが明らかになりました。原子力が支配し、生物に被曝・被爆(原爆による被害)をもたらす時代になったのです。

  池澤氏は比喩はできないとしながら次の様な卓抜な論を展開しています。

  原子炉の燃料というが火へんの炉や火へんの「燃」はただのアナロジー(類推)で見当違いだ(原子力の燃えて得られるものではない)。広島の原爆は約1キログラムのウランの核分裂のエネルギーでダイナマイトに使われるTNT火薬の1万6千トンに相当するエネルギーを放出した。その差は7桁(一千万倍)。これが通常の世界と原子力の世界の差だ。

  このエネルギーの差を埋めるにはそれを許容する材料が必要だが、人間がこれまでに発明してきた材料は、自動車のエンジン向けの鉄鋼や他の金属・合金にペットボトルなどで、原子力のエネルギーに耐える材料を生み出してこなかった。地震で破壊される長い配管・パイプや弁、絶対の漏れてはいけないない高温高圧に耐える材料はいまだにない。

  原子力の専門家からも聴かなかったこの慧眼に敬服です。

  そのうえで原子力のエネルギーに代わるものとして再生可能エネルギーに期待できるとする(と氏は書いているが、エネルギーは再生されるのではなく、ほとんど無限にあって取得できるのでそういわれているが、正しくは風力、太陽光、潮汐、地熱などの自然エネルギー)

  要はそれを実現する環境政策である。現にドイツのメルケル首相は原発を維持する政策を掲げたが、福島原発事故を契機に脱原発を選択。ドイツはすでに消費全エネルギの16パーセントを自然エネルギーにしています。

  日本でも不可能でもありません。いくら遅かろうともこれに代わる、安全で長期に亘るエネルギー源はないからです。

  805kb「春を恨みはしない」には鷲尾和彦の十数枚のモノクロ写真が載っている。モノクロというよりはコントラストの大きい白と黒の写真と言ってよいピクチュアは、無残な建造物、自然の破壊の跡、それでもブランコに遊ぶ子供たちに加えて、表紙(左)には親に抱かれて微笑む幼児と、波打つ沖を見つめる少年が見え、現実の甚大な被害の奥に希望を未来に託す眼が見えます。

  「撒き散らされた放射性の微粒子はどこかに潜んで、やがては誰かの身体に癌を引き起こす。そういう確率論的な死者を我々は抱え込んだわけで、その死者は我々の子であり孫である。」

  これは近々出版される「基準値の正当性を問う-ICRPとECRRの基本的観点の相違」(季論21 「冬」 本の泉社 今月中旬刊予定」)に引用させていただいた「春を恨みはしない」の中の一節です。

  氏は放射能雲(プルーム)の微粒子の汚染を名指しているのですが、さてその微粒子の正体は何かが気になっていました。どんな形と化学的組成を有し、どれだけ細かいかです。

  放射線は可視光線のようには目には見えませんので怖いと恐れられています。 しかし放射線を放出する放射性物質は、その多くは原発の燃料などのウランなどとして目に見えます(普通は見ることはできませんが)。しかし放射性セシウムやヨウ素などの放出された放射性物質は目に見えません。

  目に見える原発の「燃」料は、水素爆発後に極めて微細な粒子になり、放射能雲(プルーム)として風に運ばれて遠くは静岡まで達し、食品を汚染しました。この微細化の過程はどのようなものであったのか、また例えば電子顕微鏡などでの写真はないのかです。

  だが間接的ですがその姿が撮影されていました。森東大教授によるトクサとタンポポの葉の放射線写真(左)です。Photo薄いので見にくいかもしれませんが、左の二枚の写真がそれで、放出された放射線が明らかに見えます。

左側がトクサで、節のところが黒く、根から吸い上げられた濃縮されています。放射線が乾板に反応しているのです。右側はタンポポの葉に落ちた放射性物質です。やっとそれらしき物を見つけました。教授はこれらの春の香りを楽しむために天ぷらにすることは勧めないとしています(英文)。原子力以外の世界なら容易にこれらの疑問へに対する回答は得られずはずです。

ところで、福島原発と広島原爆の大気中への放射能の放出量の試算値が公表されました。ただしこっそりとです。 「Bq123456.pdf」をダウンロード

  これによれば福島原発から放出された放射性同位元素の核種はなんと31種あり、その放出量について1、2、3号機別とその合計の試算値が算出(Bq)されています。最大合計量の核種はキセノン-133で1.1×10の19乗ベクレル、最小値がモリブデン99で6.7×10の9乗ベクレル。

  毒性のきわめて強いプルトニウムが4核種(238、239、240,241)で合計1.23×10の12乗ベクレル。これは大気中や土壌中で多いセシウム137(半減期30年)1.5×10の16乗ベクレルに比べれば100分の1ですが、その毒性の強さから一旦人体に取り込まれた場合の内部被曝を考えれば恐ろしいほどの量のはずです。また同じく体内に取り込まれれば骨を構成するカルシュームと化学的性質が似ているので、骨に取り込まれれ易いストロンチウムが2種(89、90)で、半減期が29年の90は1.4×10の14乗。セシウム137の放出量の100分の1ですが、全く無視できる量ではないでしょう。

  半減期が短いヨウ素の核種は4種でヨウ素131は最大で1.6×10の17乗とセシウム137より10倍多量です。チェルノブイリ事故では子どもたちに甲状腺がんを引き起こしています。甲状腺がん予防にヨウ素剤の配布と摂取が勧められましたが、日本のほとんどの対象区域では不徹底で、批判されるありさまでした。

  福島原発事故と広島原爆の放出量と比べるとセシウム137(半減期30年)は広島原爆の約170倍、ストロンチウム90(半減期29年)は広島原爆の約2倍が放出されているのです。

  原発側や行政に都合のよくないこれらのデータは、とにかく発表だけは致しましたと証拠だけは示したのです。そのためかメディアは全く報じませんでした。嘆かわしいというよりそのいじましさ、国民の目線が全く感じられないことに憤りを覚えます。これほどまでに被曝を受ける子どもたちを無視した対応がなされるとは、これこそ想定外の最たるものではないでしょうか。

  原発事故の結果が出てくるのはこれからです。低線量の影響は「まだよくわかっていない」と二言目には書く大メディア。影響が出るのはこれからです。わかったときは遅いのです。低線量の影響を警告する専門家も少なくありません(故人の市民科学者の高木仁三郎、小出裕章、肥田舜太郎氏など。これらの専門家は主流から外されてきていました)。

  ここは地球温暖化について予防原則が適用されている(1992年のブラジルの地球サミットで採択)ように、低線量で晩発性の影響についても予防原則を適用し、避難などの対策と徹底すべきです。これまでの失態などを償う行政ができるせめてもの対応です。メディアの自覚も必要です。

  近くのホットスポットには孫が三人、この地船橋も放射能が高いのが厳しい現実です。その中で放射能による外内部被曝を最小限化する食品の選択や免疫力を高める生活がせめてものの信頼できる対策です。

  今年は昨年のような災害との闘いを強いられました。今年は良い年であってほしいと祈りながらも、どんな困難が来ようともと覚悟を決めて生きていかねばならぬのでしょう。

メモ 内部被曝, 核の芸術, 放射線時代に生きる

  原発事故でクロ-ズアップされた「内部被曝」や広島・長崎の悲惨を表現した核と音楽や絵画などの芸術、また広島の被爆者を長期に亘って診てきた医師が語る放射能の中で生きていくことなど、思いつくままの話題のメモです。

新聞第一面に「甲状腺被曝 子どもの45%」

   政府の原子力災害対策本部が四か月も経った今頃になって(8月17日)、3月24から30日までの1,150人の子どもたちの内部被曝の検査結果を明らかにしました。政府担当者はその結果について「問題ないレベル」だとしています。(8月18日の朝日新聞)

  子どもたちの内部被曝は、全体の55%が 0、最高は1時間当たり 0.10マイクロシーベルト(μSv/h)のデータの説明です。またしても根拠に乏しい安全宣言。素直に信じる国民がどれだけいるでしょうか。

   その説明会に出席した保護者は、「あまりにも遅い、子どもを外で遊ばせるのではなかった」と憤り、同席した子どもの一人は、「放射性物質が入ってしまって本当に大丈夫なのか教えてほしい」と不安をもらしたといいます。ありうべからざる政府の対応です。

 またしても原発事故の事実の後出しです。重大な人災に人災の上塗りです。迅速な発表によるショックを避けるためと言い訳するのでしょうが、政府の義務は速やかに事実を伝えて、被害を最小限にして国民を守ることです。こんな常識をいわなければならないこの国の不幸。 

 重要な事実の遅れた日本の公表の遅れに比べて、欧米のフクシマ原発事故に関する反応の迅速でした。

[専門的な用語]

シーベルト Svは人体などがどれだけ「被曝」(爆)したかを測る単位で、千分の一がミリ m、そのまた千分の一(百万分の一)がマイクロ。ベクレル Bqは放射性物質が「放射線を出す激しさ」単位。シーベルト Svは受けた被曝量で、1時間や1年間等の時間の割合で示されることが多い。ベクレルは1秒あたりにでる放射性物質からの数で、毎秒1個の 放射線を出す割合が1 Bq。広さ当たり(1平方メートル)Bq/m×mや重量あたり(1 kg)Bq/kg、また時間あたりなどで表される。

迅速に原発事故に応じた欧米 

   ドイツ放射線防護協会は、事故から10日足らず後の3月20日には「日本における放射線リスク最小化のための提案」をネットに出して支援をしています。記事は一連の「原発事故-海外からの報道」の一つで、すべて日本語訳があります。この記事にアクセスすると他の全記事が読めます。

 このドイツの提案は、福島第一原発の事故では放射性ヨウ素が多く検出されているので、サラダなどの葉物野菜は摂取しないことを推奨しています。日本では政府の発表が遅れ、子どもたちはすでに汚染度の高い野菜類を食べていた可能性が高いのではないでしょうか。

   この提案を読み進めると、現在のドイツ放射線防護令の規定に基づいて、検出されたきわめて高いほうれん草の放射能の値-1 kgあたり54,000 ベクレル(Bq/kg)の放射性ヨウ素131による内部被曝量まで計算していました。

 人工放射性ヨウ素は甲状腺に集まり濃縮されます。ドイツ放射線防護協会の内部被曝量の計算では汚染されたほうれん草を100gを食べると、乳児(1から2歳未満)の甲状腺の被曝線量は20 ミリシーベルト(mSv)、7歳~12歳で同 5.4 mSv、17歳以上で同 2.3 mSvで、ドイツの法令の限界値の年間 0.9 を何倍も超るとしています。

  年間 0.9 mSv/yは1時間当たりで 0.1 μSv/hです。

  今回の政府のデータは甲状腺の内部被曝量であり、放射性ヨウ素による汚染であり、その最高値の 0,1μSvは、ドイツの放射性ヨウ素の規制値と同じです。

   同じ値ということは、もはや「問題ないレベルではない」のではなく、たとえそれが一人であっても問題ないレベルでは絶対にありえません。しかも該当する子どもにとって由々しいことですが、個別にはその数値は知らされていないというのです。

   発達期の子どもは放射能の影響を受けやすく、影響は発達の程度により異なるので、一律に安全といえないにもかかわらず、「問題ない」と断言するのはどんな神経なのでしょうか。

   このような場合、政府担当官は危険がある値として公表するのが当然なはずです。今となっては遅きに失しますが、甲状腺がんを起こすリスクを下げるために、ヨウ素剤を与える処置(すでに実施されている?)や、野菜などの摂取上の注意を喚起する必要があったはずです。それを怠ったので、後出しの公表となったのでしょう。

   しかも日本のこの基準値=規制値は3月17日に暫定値として改正され、飲料水の放射性ヨウ素は毎時 0.10μSv から5.7μSv と 55倍も引き上げられました(厚労省の食品安全の通達では300 Bq/kg でこれからの係数かけて換算)。

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  この換算値のもとの食品安全委の通達は、原子力安全委の示した指標値(右図)でこれを暫定規制値としています。ところで暫定とはどんな期間かですが、明確な定義はなく、原子力安全委の防災対策の冊子から判断すれば、原発の事故での放射性物質の放出継続時間である24時間です。従って政府は根拠のない暫定時間に基づいて行政を行っているのです。その原因は、今度のような複数の原発事故の事態が想定外だったためというのことです
。(「高すぎる日本の暫定規制値 主食のコメは本当に安全なのか」 週刊金曜日 8月26日号) 

   規制値の大幅な緩和は原発事故という異常な放射能の放出の緊急事態によるのですが、根拠に乏しい規制値に変更した上での「問題ない」です。政府への批判を避ける姑息、かつ今後に起こるリスクを無視した悪質な改正です。かくして怪げな改正値が法的な権威を与えられ、メディアはそれを鵜呑みにして報道を続ける事態が進行しています。

  ちなみに世界や他国の「基準値」の例は次の通りです。

水道水:WHO=1, 独ガス水道協会=0.5,米法基準=0.111,日本= 300(以前は基準なし)            単位 Bq/L≒Bq/kg(

放射性ヨウ素(I-131): 独=(7.7?), 日本=10  300  単位 Bq/kg 

放射性セシウム(Cs-137):独=7.7, 日本= 10 200 単位 Bq/kg    の後は改正値

  日本の大きな「基準値」。この日本の放射能の過小評価のあまりにも大きいことに怒りさえ覚えます。

   ドイツでは細胞分裂が大きい子どもの年齢に配慮して規制していますが、厚労省の通達では、改正の一覧表の下に 注)として「100 Bq/kgを超えるものは乳児用粉乳や直接飲む乳に使わぬよう指導すること」とあるだけです。

   日本は官主導で、厚労省や文科省などの行政機関が担って「規制値」を設定しています。その値は現実の測定放射線量に合わせた値で、行政的な対策が可能な範囲に設定し、「ただちには影響はなく」、後年がんなどになるリスクを考慮した厳しい設定ではありません。

   ドイツではチェルノブイリの事故の経験に基づいた専門の組織、 ドイツ放射線防護協会があって、民主的に設定されているのでしょう。この協会は日本への提言の中で、「飲食物管理や測定結果の公開のために、市民団体や基金が独立した測定所を設置することが有益」と記しています。日本でもこのような方向へ向かうことが望まれます。それには民の声を大きくしていかねばならないのでしょう。

   Photo_2ところで、この8月23日、規制値が設定されていない対象があったことが報じられました。幼稚園などの砂場です。

   原発から200km離れた東京の放射線量を測ってほしいという強い要望で、葛飾区が保育園の砂場を測定したところ 0.31μSv/h が検出されました。区は独自の目安として0.25 μSDv/h以上を使用禁止としました。葛飾区だけでなく東京都には五つの区に同様な禁止の目安があります(上)。

   その中の足立区では禁止場所の対策として、小中学校の校庭の砂を削ってこれを三重に袋詰めし、地下1 メートルに埋め込んでいます(その費用すでに1,000万円)。使用禁止の目安は各区毎に少し違いますが、これは国に基準がないためで、区が独自に決めたことによります。(NHKニュースウォッチ9 2011/8/23)

   区側の問い合わせに対して、文科省は「相談窓口を活用していただきたい」、国土交通省は「公園を含めて基準を検討中」との返答でした。

  原発事故半年近くも経った後の返答です。

   放射能の被爆に弱い子どたちが直接触れて遊ぶ砂場では、誤って園児の口から砂が入れば内部被曝です。それを考えて園と保護者は砂場をシートで覆って緊急の対策をしています。

   市民としては禁止の「目安」といわれても不安がつのります。区はその声を背景にして、非・反原発推進の放射能の専門家の協力をえ、他の自治体と広く連携して、「目安」を基準値=規制値を目指す方向に向かえば、それは市民側からの規制値設定への一歩となります。期待したいと思います。

 「ただちに健康に影響はない」、と内部被曝

  「問題ないレベル」は、これまで専門家や政府高官から再三聞かされた、「ただちに健康に影響は与えない」の常套発言と同じです。「影響がないというのであれば、では影響がある値は?」と問われて政府担当者は答えに窮したとききます。学校の校庭で運動できる放射線量が毎時 0.19 μSv(年間1mSv)から3.8 μSv(年間 20mSv)に引き上げられ、その決定に母親が抗議した時のことです。政府側はやむなく 0.19 μSvを目指す譲歩しました。これも姑息な譲歩ですね。

   ついでですが放射線の被爆に対する正しい判断は「ただちに健康に害がないかもしれない。しかし放射線の本当の恐怖は、内部被曝によって後から生じる晩発性影響である。内部被曝は外部被曝と違った作用で、長期間人体を損傷し続ける」です。(「人間と環境への低レベル放射能の脅威」R. グロイブ/A. スターングラスあけび書房2011の訳者 肥田舜太郎他の紹介)

   体外(外部)被曝は、放射線源が体外にあって被曝する場合。内部被曝は放射性物質を吸気を通し、また食物や水を口から体内に取り込む被曝です。人工の放射線は、自然放射線と異なり体内の特定器官に集中し、濃縮される性質があります。放射性ヨウ素131は主に甲状腺に濃縮されます。

   内部被曝で一旦体内に取り込まれた放射能物質は、その至近距離に直径7~8 マイクロメートル(ミクロン)の細胞があり、体外被曝では貫通力の弱いα線やβ線も細胞に到達し、細胞核の遺伝子を傷つけます。α線は電子のないヘリウムの原子核で、空気中では45mmしか飛ばず、体内では0.04mmしか飛びません。β線は電子の流れで、空気中では1m、体内では1cmほどです。

 
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  内部被曝に詳しい肥田舜太郎さん(94歳、写真)は、「ただちに影響を与えるものではない」と発言する専門家は、被曝者を診たこともない者だと断言しています。 

  肥田さんは6千人以上の広島の原爆被爆者を診察し、体調がすぐれない「原爆ぶらぶら病」(シンドローム)の原因のは何かがあると考えて追及し、それが内部被曝の表れであることを解明をしてきました。(「内部被曝の脅威」肥田舜太郎/鎌仲ひとみ著 ちくま新書2005年 2010年第7刷)

   低線量の放射線は微量なので、被害は一切無視できる、あるいは取るに足らないものだという主張(国際放射線防護委員会ICRPなど)に終止符を打つには、低線量の放射線の被爆である内部被曝のメカニズムの解明が必要と考ました。

   肥田さんの明らかにした内部被曝のメカニズムは複雑です。体内に入った高いエネルギーを持つα線やβ線が活性酸素を発生させ、最終的に細胞膜などにダメージを与えて、がんを発生させたり、一見なまけ病に見える「原発ぶらぶら病」の症状をもたらします。

   また放射線による内部被曝では、原爆の被ばく生存者と一般国民の疾病の罹患率を比較した結果、原爆の被ばく者は晩発性のがんだけではなく、通常の腰痛や高血圧、視覚、神経障害などの疾患にかかる率が著しく高くなることが認められています。これは原爆に被曝するとごくありふれた病気にかかりやすくなるということで、原発事故の被曝者もまた一般的な病気にさいなまれることが多くなることを示唆しています。(「内部被曝隠しと安全神話」矢ヶ崎克馬 週刊朝日緊急増刊:朝日ジャーナル「原発と人間」 2011/5)

    放射線の人体への影響の解明には多くの壁がありますが、肥田さんはその壁の一つである、細胞膜の大きな障壁に関する「ペトカウ効果」を重視します。

  「ペトカウ効果」はカナダ原子力委員会のA. ペトカウがそれまでの考えを覆えした大きな発見です。

  この「ペトカウ効果」とは、「長時間、低線量放射線を照射するほうが、高線量放射線を瞬間放射するより、たやすく細胞膜を破壊する」 ことで、これは何度もの実験の繰り返しから確かめられました。常識的な考えに反して、細胞は低線量の放射線に長く曝されるほうが容易に傷つけられるのです(前掲「内部被曝の脅威」 鎌仲ひとみと共著 ちくま新書 2005)

    原爆が広島や長崎に投下された当時のアメリカは、原爆による被害は短時間の外部被爆だけだとして、内部被曝を知っていながら必死に隠ぺいし続けていました。これを認めれば人道的見地からも原爆の使用を否定せざるをえなくなるからです。

   その状況の中で、肥田さんが被ばくによるさまざまな疾患は内部被曝であると考えるに至った道のりは長かったといいます。

  1954年に美しいビキニ環礁で行われたアメリカの水爆実験で第五福竜丸が「死の灰」をあびて漁師27名が被爆しました。無線長の久保山愛吉さんは原爆症で亡くなられました。 漁師達の被爆者はこの水素爆弾の爆発実験でまき散らされた「死の灰」を体の中に取り込んだのです。これらの体外被曝では説明できない内部被曝の存在を明らかにする契機になったのです。(NHK ドキュメンタリーWAVE「内部被曝に迫る」 2011/8/14など)

   この水爆実験場は2010年に「サンゴの海の核実験場」として世界遺産に登録されました。核実験はビキニ環礁だけで23回、マーシャル諸島では67回もおこなCastle_bravo_blast1われました。
  第五福竜丸が被曝した水爆の名は「ブラボー」 (すばらしい? 右写真)で、その
噴煙は上空 35kmまで舞い上がり、海底には直径 2 km、深さ 80 mの巨大なクレーターができました。海底の生物は死に絶えて、現在でも白いあばたのような姿をさらしています。美しかった海底のサンゴは殺され、粉雪のように風に乗って流され、「死の灰」となって爆心地から160 kmでマグロ漁をしていた第五福竜丸に降り注ぎました。その量は乗組員の致死量の3分の1 にも達したといわれます。

  この死の灰は、第五福竜丸の船体から採取された白い粉末や細かな砂をみればよくわかります。(写真:左と下がビンの底の拡大した砂)死の灰はサンゴなどの海底の生物が体外被曝したものです。650k_2

   現在のビキニ環礁の残留放射能は、砂浜では 0 μSv/h(0.1 mSv/y)と測定されていますが、地600k_3面に残った放射性セシウムがヤシの実などに移行する恐れがありました。

  その対策としてセシウムと化学的性質が同じカリウムの肥料を施肥した結果、放射性セシウムを95%減らすことができることがわかりました。この研究結果は今、ビキニのささやかな希望となっているといいます

  ビキニの水爆実験への怒りと不安は、3,200万名もの署名を集め、世界の核軍縮への道を歩ませ、12年に亘った水爆実験は1858年に終止符が打たれました。(TBS 世界遺産 2011/8/21)

核と芸術(音楽、絵画)

「久保山愛吉の墓碑銘」

   久保山愛吉さんで思い出す現代音楽があります。当時西ドイツの電子音楽の先駆者の一人であったヘルベルト・アイメルトが、久保山さんの被爆を知って、数年後に作曲した「久保山愛吉の墓碑銘」です。

   この曲は久保山さん死についての簡単な説明、<墓碑銘>の朗読でドイツ語で始められ、朗読されたドイツ語発音の「アイヒヒ・クボヤマ」が電子音楽の手法で提示され、これがさまざまなに展開されて繰り返えされます。ここにお聞かせしますのは電子音楽の部分の最初の部分です(LPレコードからMP3へ変換/全曲約23分の約1分)。

  古典的なクラシック音楽では聴くことのない、電子音楽の異様な音と化した「アイヒヒ・クボヤマ」は、眼に見えない放射能の恐ろしさを伝えています。

「広島の犠牲者への哀歌」

  ポーランドの現代作曲家クシュイトフ・ペンデレツキは、1964年に52の弦楽器のための<広島の犠牲者への哀歌>を広島市長に献呈しています。演奏は大編成のワルシャワ国立管弦楽団で、大気を引き裂くような金属的な鋭い音で始まります。空爆と受け取られる所もありますが、核の脅威へのおののきでもあり、また人間の魂の叫びでもあります。

広島市長に贈る 」    K. ペンデツキ   クラカウにて  1964年10月12日

この「哀歌」をおさめたレコード(LP)を、心をこめて贈ります。これによって私は、広島の犠牲者へのつつましい敬意を捧げます。ーーーーーーー広島の犠牲者は、決して忘れられ消え去られることなく、広島が、善意の人々すべての友愛の象徴となるであろうとの私の信念を、この「哀歌」に表現したいと願います。   

 

   アイメルトを生んだドイツは第二次大戦時の大虐殺の国の、ペンデレツキは18世紀以来外国の被害に苦しんできたポーランドの作曲家です。アイメルトは1989年生まれ(1972年没)、ペンデレツキは1933年に生まれています。時代に36年の開きがありますが、二人の共通点はともに核の時代の音楽を切り開いてきた現代作曲家であることです。今改めて聴いてみて、これらの作品は、抽象性の高い芸術としての音楽が、国境を越えて核の悲惨を表現した類まれなものだということを再認識しました。 

「原爆小景」 

   日本では1931年生まれの林 光が合唱曲「原爆小景」を残しています。歌詞は原 民喜の詩です。1)水ヲ下サイ  2)日ノ暮レチカク  3)夜の3つの楽章からなります。「水ヲ下サイ」 の始まる部分をお聞かせします。 林 光は新藤兼人の「第五福竜丸」の映画音楽も作曲しています。

  これら手元にある 三枚の LPは43年ほど前のものです。いずれも現代音楽の古典となっていますが、フクシマ原発の事故で音楽の訴求力を改めて確かめました。今回の事故はどのような、新しい音楽を創出するのでしょうか。

「明日の神話」

   芸術は爆発だ。渋谷の地下に展示されている岡本太郎の巨大な絵画「明日の
神話」は、あたかも原発事故の水素爆発を予言していたかのような強烈なエネルギーを発しています。
この絵には第五福竜丸が描かれています。

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  丸木位里・丸木俊夫妻が共同制作した<原爆の図>が8月31日まで東松山市で開かれています。夫妻ともに原爆の被ばく者で、展示されている作品「救出」には夫妻の姿が描きこまれています(丸木美術館学芸員 岡村幸宣 東京新聞2011/8/3)。

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   アメリカの20世紀のの代表的画家、ベン・シャーン(ユダヤ系リトアニア人1898-1969)がLucky Dragon-第五福竜丸のシリーズを描いています。無線長だった久保山愛吉さんや彼が伏したベッドなどの絵です。ベン・シャーンはアメリカの画家としては珍しい社会派の画家ですが、そのグラフィックなタッチで、人間の感情を独自に表現しています。モノクロの写真(下)は、日本で開催されたベン・シャーンの絵画展で、ベンの絵の前に佇む久保山さんの奥さんです。(伝記 ”Ben Shann" Howard Gerrnfeld, RANDOM HOUSE NY 1998)

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国際放射線防護委員会と欧州放射線リスク委員会

  かつて原爆症認定集団訴訟で大阪高等裁判所は、人工の放射線は確率的影響(必ず起こり得る確からしさ)があるとして、微量であっても乳幼児のがん死亡率が増加するとしたグーグル、ゴルドマンの著書の図を引用し、低線量被曝または内部被曝を過小評価することを断罪しました。

  国際放射線防護委員会(ICRP)には、その名称から受ける印象とは異なり、、ある程度の犠牲はやむを得ないとする規約条項があって、内部被曝を否定しています。この7月、NHKのニュースウォッチ9で内部被曝の討論会が放映されましたが、内部被曝はないと断言した参加者がいました。後で調べるとそれはICRPの日本委員でした。

  [内閣府の食品安全委員会作業部会は、生涯の累積被曝線量を100mSvとしたが、福島と近県の測定は行っておらず外部被曝と内部被曝*の区別はなく、英国国のNPOにすぎないICRPが定めた基準を「国際規格」であるかのように振りかざされている」と批判されています。(「論壇時評」金子 勝 慶大財政学 東京新聞2011/8/25夕刊)

  ICRPと対照される組織である欧州放射線リスク委員会(ECRR)の考え方は、人間の健康を防護を基準としていて、ドイツなどの欧州で採用されています。両者には、しばしは引用される見解の違いがあります。

   放射線で犠牲になった戦後の人数は、ECRRが 6,500万人、ICRPの基準による推定は、117万人です。この大きな相違は内部被曝を無視するか否によるものです。

   日本では、高裁の判決があったにもかかわらず、ICRPの功利的なやり方を追随してきました。自民党政府と東電を頂点とする電気事業者連合会は原発を国策としての推進です。原発立地の自治体には迷惑使用料(電源三法交付金)がばらまかれ、また安全神話のPRに多額の税が使われてきました。原発事故は原発立地の自治体にとって最小限の安全確保である放射能測定器さえなかった実態をさらけ出しました。

   ちなみに経産省の原発予算はでたらめで、2008年の「原発は安全」などの無意味な広報予算は138億円であったと報じられました。(「アエラ」1011/8/8)

安全神話の罪悪

  「災害はそれに見舞われた社会の断面を一瞬にして浮上させる」とし、まさに一瞬にして大複合災害が「疲弊している地方」におびただしい数の原発が持ち込まれたと喝破したのは経済評論家の内橋克人さんです。安全神話づくりには東大教授、男女キャスター、脳科学者にスポーツジャーナリスト、文化人等々が動員され、パブリックアプセプタンス(社会に受け入れられ、認知を求めるための働きかけの)PA戦略の片棒としてはせ参じました。

   (内部)被曝はスロー・デス(時間をかけてやってくる死)を招くとまとめたアメリカの「マンクーゾ報告」も紹介しています。これは原爆の強烈な外部被曝によるサドン・デス(突然の死)に相対する言いです。(世界2011/5等)

  佐高信さんは、電力会社に群がる原発文化人25名を「原発文化人の罪」として論告求刑しています。 (週刊金曜日(2011/4/15)(養老孟司、茂木兼一郎、北野武、渡瀬恒彦などのセレブ) 

放射線の時代を生きていくには

   3・11以後の日本には、人工放射能に汚染されていない地域はほとんどなくなってしまい、加えて人工放射能に汚染されていない食べ物を摂取することは困難になっています。

  放射性物質の甲状腺に集まるヨウ素131、膀胱に集まるセシウム134, 137だけでなく、造影剤として使っていた トロトラストが 20-30年後に肝臓がんを発症させる確率が25-30% あり、放射性物質と健康被害は後年因果関係が証明されるものが多く、統計学的視点の判断は子どもたちを守る視点に立っていないと強調したのは児玉龍彦 東大アイソトープセンター長です。(7/27の衆院厚労委員会での証言) 

   野菜や肉は九州産や西日本産、卵は九州産や外国産、水はミネラルウォター。自宅の床や壁、また雨で濡れたカッパなどは水で除染しても福島の子どもの尿から放射性セシウムが検出されたことが報じられました。

  これを知った、埼玉県住む女性は、検査料3万円を払い山形県の環境調査会社に検査を依頼。その結果は、尿1kg あたり0.4Bqを超えるセシュウム137でした。「ショックと、やっぱりという気持ちの両方でした」。このことを学校に問い合わせても大丈夫の一点張りでした。(「アエラ」 2011/8/22)

   汚染された藁による肉牛からは暫定基準値 500Bq/kgを超えた 2,300Bq/kgが検出され、疑いのある牛肉が全国に出荷されて、一部は消費者の口にも入っています。

   しかも事前の牛の体表の放射線量値はクリアしていたというのです。牛の内部被曝は明らかでした。藁による汚染は「想定外」であったことはある程度理解できますが、問題は放置された藁の田んぼの土壌の測定点は少なく、しかも放射線物質は地表 5cmの表層にとどまるという研究がありながら、15cmまで深く土を混ぜたというのです。そのために測定結果は地表面の線量を大きく下回って、土壌の高い放射能の藁は関心からはずれ、その藁を食した牛が内部被曝したのが実態です。稲わら-牛肉汚染は、基本的には、万全を期すべき対応を怠った政府だと糾弾されています。(日本を揺るがす稲わら-牛肉汚染」 北林寿信 世界9月号)

  魚介類では、外国の専門家が参加したグリーンピースジャパンのチームが、この 5月に福島沖の海の生物のサンプルを採取、海外の試験機関に依頼してえた測定結果を公表しました。結果は、アイナメ、カキ、マナマコに高い放射性セシウム、また海藻では、年間 1kg摂取すると 2.8mSvの内部被曝量に達する放射性ヨードを検出しました。グリーンピースはこの結果をふまえて、日本政府に徹底したモニタリングや原発の汚染水の海洋環境への放出などを禁止することを要請しました。これに対する直接の対応はありませんでしたが、結果としてモニタリングが強化されたそうです。

  グリーンピースの7月22日~24日の再度の海洋調査でも、すべてのサンプルから放射性物質を検出し、依然として福島沖の汚染が深刻であることが判明しました

  政府による魚介類のモニタリングが強化されたとはいえ、食品分析の測定器は少なく、海産物の全量検査ができない体制は依然として問題と指摘されています。

   緩すぎる基準値=規制値の判定でさえこれを超える食品の摂取を余儀なくされているのが現実の日本です。日本では多かれ少なかれ日本で生産または獲られた食品を食べる限り内部被曝を避けることは不可能になっています。

  この事実にどう対応して生きていけばよいのでしょうか。

  内部被曝を解明してきた肥田舜次郎さんは、被爆から逃れるにはどうしたらよいかと聞かれて、

  今も原発は微量であっても放射能がだされており、「厳しいかもしれませんが、完全に逃れるのは不可能と開き直って、免疫力を上げよと話してきました。広島や長崎でも実際にそうして生き延びてきた被爆者がたくさんいます。

   アメリカの核施設から160キロ以内で乳がんの死亡率が高くなっていますが、日本はほとんどの地域が160キロ以内です。自分と自分の子だけが助かろうとしてもダメ。みんなで放射能の出る源を絶って放射能から逃れる必要のない世の中を目指すことが大切です」。(放射能との共存時代を前向きに生きるー「世界」2011/9の対談)

   牛肉、野菜類に魚類が汚染され、主食のコメも心配です。8月25日の千葉県の予備調査では規制値を下回るとはいえ、玄米1kgあたり放射性セシウムが47Bq 検出されました。主食のコメの摂取は一日約900g。もし暫定規制値 500Bq/kgのコメを食べ続けると、野菜類の摂取と合わせると内部被曝量は暫定規制値の年間 1 mSvを超えて2~3 mSvに達するとの試算され、規制値の一桁以下に改めるべきだと強い要望がだされています。(前掲 週刊金曜日8月26日号)

   今後の本調査の結果が懸念されます。

   メディアや自治体のHPによれば、原発事故で放出された放射能は、ポット・スホットを含めて全体としては減少してきています。例えばホット・スポットで名高くされてしまった福島県浪江の赤宇木(あこうぎ:原発から31km北西の計画的避難区域)の放射線量は、原発事故直後で、58~70 μSv/hと極めて高い値でしたが、その後急激に下がり、4月=26、6月=20、8月24日で15μSv/hと低下しています。ただし福島以外のホット・スポットの柏市や我孫子市などの東葛 7 市では、短期間の測定のためか初回の6月14日と第5回 8月8日の値は最大 0.5μSv/hでほとんど変化がありません。

   一方では埼玉県の一部で増加している地点があり、埼玉県は独自の原発対策を検討することになりました。原発の収束はこの先いつになるか見通しは立っておらず、放射能とは長期にわたる付き合いが避けられません。

  肥田さんの勧める放射能時代を生きていくポイントは免疫です。

   免疫を高める基本はバランスのとれた食事を摂ることでしょうか。

   問題は満足な食事を摂ることができない生活を余儀なくされている人々ですが、これは自治体と国の政治の出番です。

   トピック中心で、思いつくままのまとまりに欠けるメモになりました。

 

被災した故郷を訪ねる-襲った津波はなぜ黒かった

東日本大災害の3・11からはや100日以上が経ちました。

遅きに失しましたが仙台で被災した姉の見舞いがてら、蔵王が一望できる故郷宮城県の県南から北の仙台空港、閖上(ゆりあげ)、荒浜、松島海岸から石巻まで、二日間かけて現地の状況を見てきました。

津波の映像はNHKをはじめ多くのテレビ日で放映されましたが、最も印象に残ったのが、BBCが放映した宮古等を襲った津波の映像です。

Photo 沖から襲う高い壁のような津波が船舶や車を次々に押し出してはひっくり返して襲っていく光景です。 映像は途中から音が入ります。

壁のような津波の先端は真っ黒です。

海といえば、反射的に白砂青松の海岸を思い浮かべるのですが、それとはまったく似ても似つかない光景が繰り広げられました。

  この黒い津波に加えて、あり余る海水の中で、空高く炎と黒煙上げる火災の

発生も異様でした。

津波の後の残されたガレキなどはメディアの写真や映像でいたるところで、いつでも見ることができますが、被災の現場でなければ感じ得ないものは「匂い」と「音」でした。海の匂いは、ガレキや海水の水たまりにありました。音はといえば、それは人の気配がない沈黙の世界でした。

これらの異様な黒い津波と火災については、現地を訪れてその答えを得ることができました。

6月15日(水)

船岡から仙台空港へ を経て姉の見舞いに

  故郷の大河原へは東北新幹線の福島で東北本線のからローカルに乗り換えて40分ほどですが、今は大河原には気安く立ち寄れる親戚はおらず、従弟のI さんとその妻Sさんが住む隣の船岡に寄ることにしました。

  I さんはかなりのカメラマンでして、震災の10日ほど後で、美しくも悲しい写真を送ってくれました。

 20110406_900k
 

仙台空港に住むSさんのお兄さんが、失われてしまった大地を見つめている写真です。巨大地震と津波が収まった後日、I さんが妻のSさんの実家が建っていた処を訪れて撮った写真です。

お兄さんは、3月11日、午後2時46分、大きく長く揺れた地震の直後、学校から帰宅した孫とその一家7人をクルマに乗せて仙台空港に避難。空港のロビーから自分の住居や車4台に田畑を奪われて行くのを目の当たりにしたといいます。

雲一つない美しい青空の下には倒されたハウスのパイプがわずかに残っているだけ、お兄さんはほとんど何もなくなった大地を見下ろしています。

何故Sさんのお父さんが巨大地震のあと津波を予測して迅速な避難行動をとることができたのかを尋ねますと、兄さんは消防団長で、避難訓練を実施してきたといいます。

備えあえば憂いなしを地でいったわけです。そのお兄さんは今仮設住宅に住う身、今後の展望は開けないとおっしゃっているそうです。お兄さんの無念さが伝わってきます。

 
 

海水が浸入した田畑は海水による塩分で農作物の栽培が困難になると憂慮されています。

900kbSさんの運転する車でつい先日まであったお兄さんの住まいのあったところにつれて行ってもらいました。

そこには I さんの写真の通りの風景が青い空の下に広がっていましたが、よく見ると、少し遠くにナスなどの野菜が畝を作って植えられているのが見えました。お兄さんが一月ほど前から育てているといいます。

900kb_2

それだけではなく、土台やポリバスが残っていた住居の片隅には、カボチャが四枚の葉を広げていました。塩分にもめげず台所の厨芥の中にでもあった種が芽を吹いて育ったのでしょうか。

そのすぐそばには30 cmほどのアカザ(雑草)も地面から生えていました。アカザは一年草の雑草で、夏には若葉が紅紫色になり食べられますが、まだ緑色でした。ここでの農作物の栽培はそれほど困難ではないのではないか、是非そうなってほしいと思いました。

それで、これらの今後の生育具合を教えていただけないかと S さんにお願いしました。しかしこの願いを引き取った I さんは、S はもう触れたくないのだといいいます。

  被災者の心の奥を察することができなかったことを恥じました

仙台空港から名取海岸を北に閖上(ゆりあげ)から荒浜へ

700kb  その後、 I さん夫妻には 、仙台空港へも寄ってもらいましたが、地上から見る空港は被災の跡は見えませんで、  上空からの写真で判断するしかありません。

 

左は国土地理院のHPに載っている、上空斜めかみた空港の写真で(左端が滑走路でその左に空港の建物がある)、被害の状態がわかります。滑走路の右側前方にお兄さん一家の住居などがあったのでしょうか。

 

  その仙台空港を後にして、次のコース-名取市の閖上からを経て仙台の荒浜-に移るために東北本線の名取駅まで送ってもらいました。

  その途中で見た田んぼは梅雨入り前の乾いた季節なのにじっとりと湿ったままで、いまだに海水が引いていませんでした。

 

  一見代掻き前の田に見えましたが、突如として田んぼの中にクルマ850kbのタイヤがぽつんと立っていたり横倒しになっていました(右の写真)。このまま冠水が長引くと海水による塩害を引き起こすことが懸念され、この塩分除去には3年ほどかかり国は9割補助することを決定しとといいます。

   ああ、これが津波が残した爪痕であり、その対策です。いまだに海水が引いていないのは、地震による地盤沈下で海面と同じレベルになっているのでしょう。 国土地理院の観測によればこの辺は地震で亘理町20cm、岩沼市で47cm地盤が沈下しています。国交省と宮城県の調査では仙台平野の海抜0m以下は5.3倍に広がっり、農民の今後の農業経営が憂慮されます。

 

  また地震ではこの地域は、ほとんど東向きに3mほど地殻が移動して国土が広がったものの、地盤沈下で実質はほぼ変わらなかったように見えます。なお最大の東への移動は宮城県の牡鹿半島の約5.mです。

 

  名取駅からはタクシーに乗り、津波の被害が大きかった名取市の閖上(ゆりあげ)から仙台市若林区の荒浜を経て仙台の姉に家まで約2時間。

現地の被災状況を見て回りました。閖上は辞書に載っていない珍字だといいます(下方に由来が書いてあります)。

閖の漢字の門がまえの中のが気になりましたが、「ゆりあげ」は透明感のある美しい響きがあり、久しぶりに懐かしい地名を思い出したのですが、今度の大震災で初めて閖の漢字を知りました。

  900kb_3その閖上の中学校も津波にあい、復旧されつつあるようでした(左の写真)。

名取市の閖上から仙台の若林区荒浜の海岸には、他にも見られるガレキの多いところや、ガレキがほとんどない場所もありました。

一方で、木材、衣類等のガレキに燃やしにくい金属のガレキに仕分けられて、次の処分を待つ山が見受けられました。(下の写真 荒浜で)

900kb
  震災後4か月経って
なお、宮城県のガレキので仮置き場に移されたのは30%ほどで、岩手県の約50%に比して少ないと報じられています。宮城県のガレキは3県で最大の1500万トンと、途方もない量です。

これらの仕分けられたガレキはしかし、その先の行き場がありません。

Photo

荒浜の海岸には津波に耐えて残っ
た修復の漁船もありました(左の写真)。

名取付近の海岸には、津波に襲われた一1_900kb軒家のそばに一本の松の木が立ってました。茶色に海岸の枯れた松とは違い、震災後3ケ月以上経っても松の緑は濃く生きていました。

  陸前高田市では細長く高い松が一本だけ残り、今にも枯れそうな状態、クーロン技術で命をつなぐ努力が繰り返し報じられています。

名取海岸のこの松はごくありふれた屋敷内の松の木です。メディアに取り上げられることもなく、見る人もなく津波に耐えてひっそりと生き残っていました。

Photo_2宮城県の名取の閖上を経て仙台の荒浜までの津波の浸水状態は国土地理院の地図(左)を見るとよくわかります。

津波は海岸から6kmにも内陸に侵入しています。これこそ想定外の津波の猛威を表す地図です。

(6月15日に訪れた被災海岸は左下の岩沼の左下の船岡から仙台空港へ、さらに北の閖上から荒浜に、そこから仙台の市街地までです)。

荒浜(仙台市若林区)から同市宮城野区の姉の家へ

荒浜を後にしてその日の900kb_3夕刻、仙台市宮城野区の姉の家を見舞いに訪れました。

震度6強の地震を二度も経験(3月11日と4月7日)した姉夫妻は、それでも見た目は元気でした。

3月11日の最初の地震は数分間続き、ガス、電気と水道のライフラインは切断されましたが、4月7日の二回目には、ライフラインは途切れなかったそうです。

 

それにしても経験したことのない激しい揺れが襲っていた長い時間。姉は身障者支援で玄関に設置したパイプの柱につかまって必死に耐えたそうです(右写真)。

6月16日(木)

松島海岸から東松島市の野蒜(のびる)へ

 仙台駅前のホテルに一泊した翌日は、JRの仙石線(仙台から石巻)で松島海岸駅まで乗車。

  芭蕉の奥の細道にも記された日本三景の一つ、松島海岸も津波に襲われ、島の一部が崩落したり、島と島とを結ぶ橋が壊れたり、大きな被害を受けました。

 松島海岸の復旧では、高台への移動も考えられたようですが、できるだけこれまでの景観を損なわないよう配慮されたといいます。

 それもあったのでしょうが、松島海岸駅は昨年5月に中学の同期会に訪れた駅ですが、その時の風景と何も変わってはいませんでした。

  津波に襲われた直後の松島の路上にはヘドロやガレキなどが散乱したそうですが、今はすっかり除去され、きれいになっていたのです。

 
野蒜海岸

  というわけで、松島海岸駅からは海岸沿いにタクシーで東へ10kmの野蒜海岸へ直行しました。 

  東日本大震災の津波が襲った野蒜海岸については、東北大の津波工学の今村教授が現地調査を行い、秒速10mを超える強力な破壊力で津波が来襲し、堅牢な野蒜の防潮堤が破壊された新聞が伝えていたので、ぜひひこの目で見たいと予定していた場所です。野蒜は海水浴場として名が知られてきた所です。

  今村教授は津波の流速は早くても 5m/s程度だが、インド洋大津波の流速を超えていたと見積もり、壊れた防波堤は筑後10年で高さは 3 m、幅数mのコンクリート造り。これが破壊されたのは異例としています。なお岩手県宮古市を襲った津波は連続写真から秒速32m(時速115km)と分析されています(岩手県立博物館 大石学芸員)。

 現地に着き、海岸の手前に植えられた数メートル幅の松林を横切ると防波堤が水平に一直線に見えました(下の写真)。

960kb防潮堤の陸側で護岸の右に階段があり、その右は無残に崩壊してむき出しになった茶色の砂の壁。

崩壊した壁は長く右側に伸び、写真には見えませんがその先にまた階段があり、長い防潮堤の管理のための配慮がなされています。

900kb_4  左側の階段を登って防波堤の上に立つと、津波の来襲など全く記憶になかったかのように波静かな太平洋が遠くまで見渡されました(右の写真、防潮堤の右に崩落した壁が見える)。

 この崩落はなぜ津波が襲来した海側でなく陸側なのでしょうか。

 津波は寄せと引きの両力で陸上を破壊させていますが、この野蒜の防潮堤の崩壊は、津波が引く際に起こったものと考えられているようです。

石巻(いしのまき)海岸へ

 Photo 野蒜を離れて石巻へ向かう海岸には、名取海岸で見たような海水で立ち枯れた松の木が見えました(左の写真)。

  石巻港付近では海側に港が遠望でき、その手前の田んぼには一面にガレキが散乱している所がありました。

  舗装道路の左側は津波の痕がなく、道路が津波の境界線になっていました。 数基のクレーンが見える遠くの石巻港の手前に細長い緑の帯が見えます。

900kb_7  遠くで何かはっきりしませんでしたが、たまたま通りかかったおばあさんに尋ねると、休耕田だといいます。

緑色は休耕田に生えた雑草に違いありません。手前の田んぼは津波の襲撃で海水が侵入して稲の作付ができなくなり、一面にガレキに覆われている想像もできない荒れた風景でした。

休耕田の雑草は、I さん妻の兄さん住宅跡に育っていたカボチャやアカザのように塩害に強いのでしょう。

  農水省では塩害に強い農作物が探索されているそうですが、おいしいイネなどの改良品が見いだされてほしいものです。

 石巻港の岸壁に着いてみると、ここも森閑としています。

  港らしい汽笛やざわめきがまったく聞こえてきませ。港が見える900kb_9岸壁の上には船が赤い船底を向けてまっさかさまに乗り上げられていました(左写真)。

  小高い岸壁に這い上がって展望しようとしましたが足場がなく果たせませんでしたが、かろうじて港の全景を眺めることはできました。

  港には大きなタンカーが接岸していましたが動いている気配はありません。900kb_6

   岸壁の内側の地面には水たまりがところどころにあり、青い油膜が張っていました。船舶の油が漏れたのでしょう。

  石巻市は地震で78cmも地盤が沈下しています。2か月以上経っても、たまった海水が引かないのは、水面が海のレベルになっているからでしょうか。   

   水面の油膜は津波で海上に流されたオイルタンクの油や、破壊された船船から漏れた油が薄く広がったものでしょう。そこに地震に揺さぶられた金属などが擦れあって火花が散って着火し、大きな火災が発生したことが容易に想像できました。

   揮発性の高いガソリンが埋設されているガソリンスタンドでは、着火は一層簡単に起こります。それが津波と火災の関係に違いありません。

  900kb_11岸壁の近くの民家の脇では、ブルドーザーが水たまりのヘドロをかき集めていました。

  水に濡れたヘドロは黒。これを見て津波が黒いわけを即座に直観しました。

津波が黒いわけ
 

 ヘドロの源は、人間生活や生産活動に伴う廃棄物だったのです。

 市街地の陸から流れ込む川の河口には、排水処理が不十分か、全く処理しないまま汚物が流入すれば、海岸には黒いヘドロとして沈殿していきます。

  そこを津波が襲えば、ヘドロは津波の切っ先は黒い津波となって内陸へと向かいます。

 黒い津波は天災ではなく人災です。黒い津波の正体は自然の浄化能力を超えた廃棄物がヘドロとなった結果であり、これは明らかに「環境問題」です。

Photo_2   ヘドロは主に都市や町の河川の河口に溜まってきたわけですが、その様子はGoogle Earthの上空からの写真で確かめることができます。

   例えば、震災後の岩手県の大槌町とその北東の吉里吉里地区の海岸の色は対照的です(右写真、画像取得日は撮影は地震後の4月1日です)。

  大槌町の大槌川の河口から広がる海岸の海底は、津波がヘドロを内陸に運び去ったために河口はで緑色が回復していますが、その先はヘドロの黒い帯が海底に見えています。

  一方大槌町の北東の吉里吉里地区の海岸は流入する川がなく、紺碧の海底が沖まで広がっています。

  大槌町の中心部を襲った津波は黒く、また残されたガレキの中から見つかったアルバムにはヘドロがついて臭かった。一方大槌町のの吉里吉里の津波はきれいでだったという証言も得られました。

 これは6月26日に、大槌町の子どもたちを支援している「パレスチナ子どもキャンペーン」の報告会が開かれ、現地で活躍したNGOのメンバーから直接聞きました。このNGOは母の水彩画の遺作展の収益を義捐金として送ってい関係の団体です。

Photo_4 ところで、東電の撮影した福島第一原発を襲った津波は黒くありませんでした(左の写真)。原発の立地にはさすがに町はなく、注ぎ込む河川もありません。

  一見きれいに見えるこの津波には、メルトダウンと水素爆発などで放出された見えない放射能物質が多量に含まれていたのは間違いありません。東電の推計では海に流出した汚染水中の放射能は4700京ベクレルという途方もない量で、その後事故のレベルが7に引き上げられた公表ではその100倍になっています。

被災地の復旧・復興

  Photo_3石巻は今度の大災害で死者・行方不明者は5,800人。人口の当たり3.6%に達しています(6月現在)。

 大槌町は津波で壊滅的な被災を受け、多くの町民と町長や議員に職員が犠牲なりました。人口は約15,000人で人口当たりでは11.4%という信じられないほどの高い割合です。

   石巻では「医師の空白」が報じられました(報道ステーション7月)。

 大震災で残った医療機関は赤十字中央病院だけで、全国から応援の医師が駆けつけ支援を受けてしていましたが、引き揚げざるをえない時期がきて、医師の空白が生じているといいます。

 東北の災害地でも梅雨を迎えて気温が上がり始め、ハエや腐臭に悩まされてきています。

 残されたガレキの始末では、仮置き場への搬入は宮城県では四か月経ってもまだ30%にとどまっています。

 

  故郷の被災地を二日間、約6時間かけて駆け足でできるだけ実態を知ろうと心がけて写真を撮ってはきましたが、ボランティアとして、被災地の苦しみに沿い、また被災地に役立つようなことができる力はなく、ただただ厳しい現実の一部をを眺めてきただけ短い旅でした。

  900kb_13石巻港を去る日の午後、大きな船舶が打ち上げられた岸壁で、ガレキの中に遺品を探していた二人を見かけました。

震災後百日も経ってなおせめてもの遺品を探すせつなさはいかばかりでしょうか。
 
 

 

福島、宮城、岩手の大震災からの復旧・復興は垣間見た実態からも多くの年月がかかること、したがってこれからも長く支援する必要があることを理解しました。

 

記しておきたいことはまだ残っていますが、まずは駆け足の故郷のブログの筆を置きます。

 

情報災害

■情報災害

  母の遺作展で情報災害なる、耳慣れない言葉を使いました。

  これは相手を見ながら会話ができるSkypeで、インドのISOの委員と話している時に、余談として日本の大震災の状況を問われた際に、巨大地震、大津波と原発の三大災害に加えて第四番目の災害、新たな情報震災に悩まされていると話した時に説明として使ったのに始まります。

  特に原発事故では東京電力と政府が流す情報に信頼性が乏しく、情報の隠ぺいや先送り、事故を小さく見せる小賢しさ、また一旦発表した内容を恥ずかしげもなく訂正。それも二度ならず三度も行うなど、その例の枚挙にいとまがありません。多くの日本の国民は東京電力や原子力安全・保安委員会、原子力安全委員会などの政府機関の情報の信頼性を疑っている事態の説明する言葉として用いました。.

  彼は大方を理解したようでしたが、改めてこの新語の意味する具体的な内容を検証してみました。

  ■情報(データ)のバラツキ

まずは放射線量の重要な情報であるデータのバラツキです。文科省が委託している都道府県の定点測定点の値がまちまちだと報じられています。

  バラツキの理由として挙げられたのは測定点の地面からの高さや測定の目的の相違ら測定器の違いなどです。例えば放射線量の最大の値の水戸では地面から3.5m、宇都宮20m、東京19.8mで測定されたデータです。

  これらの測定値をそのまま比較すると、水戸の値は東京の約1.3倍、宇都宮の約3倍高くなります。しかしこれらの比較は、その条件が異なるので意味をなしません。測定条件が統一されていない比較は不可能だからです。

  測定の目的については、高い場所の測定はこれまでの核実験など、海外からの放射線量の測定のためでした。

  高さについて現在重要になっているのは、今回の原発事故による生徒・児童の活動する校庭や教室での測定であり、これは1m程度です。

  さらにいえば将来最も大きいリスクを抱え込む幼児では精々0.6mの高さです。しかも地に接する足を考えると 0 mです。これについて論じられたことは、知る限りではありません。

  これについては、取りあえずは土がむき出しの校庭や公園に芝生などの草地は放射能が高いので、放射性物質が雨などで流されている舗装道路などで遊ばせるのがよいはずです。こに事実は次に紹介するNHK放映の放射能汚染地図の作成の過程で明らかになっています。

    このようなバラバラで比較不能なデータが問題になる場合は、測定条件の標準化を図る必要があります。残念ながらこれらの測定のJISは整備されていません。JIS化は準備期間を入れると2・3年はかかり、当面の対応にはなりません

  この状況を解消するには、取りあえずは暫定的な測定の指針(ガイド)を示す必要があります。例えば測定値には必ず地面からの高さ、測定機種や値の出し方(1回の値か平均値)かなどです。ただし指針の策定機関としては環境省や経産省、厚労省などの政府機関ですが、根強い官僚主義が迅速な対応を妨げる恐れがあります。

Photo 

  実際の放射線量のデータといえば、例えば文科省が定点観測のデータを公表していて、ほとんど毎日の新聞に載せられています(上のグラフ)。これによれば浪江の赤宇木(あこうぎ)などの放射線量は毎日1%ほど増え続けています。

  このまま推移すれば年間で120 ~150 ミリシーベルトに達しそうです。これは学校・校庭の利用基準をはるかに超える値で、深刻な値です。

ホットスポット

  放射線の被曝については、これまでの文科省などや自治体の観測点に加えて、局所的に極めて高い場所のホットスポットが発見され、注目され始めました。

  このホットスポットの存在と実態の詳細を報じたのはNHKのETV特集「ネットワークでつくる放射能汚染地図-福島原発事故から2カ月-」(2011/5/20)とその続編です(2011/6/5)。

  放射能測定の草分けである岡野眞治氏が開発した機器を、放射線衛生学の木村真三氏がワゴン車に乗り込んで福島第一原発から北東の福島市までの主要な道路を連続的に測定して放射汚染地図を作り上げています(下:全汚染地図と色別の凡例)。 2か月間の走破測定距離は約3,000kmにも達しています。

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  赤い部分は1時間当たり10 マイクロシーベルトを越えた場所です。この場所を通過中に突然、測定機器の測定限界の毎時 300 マイクロシーベルトで針が振り切れて(下の写真)測定不能となった場所がみつかりました。その点がホットスポットと呼ばれました。

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  このホットスポットは、ワゴン車を使った連続測定で線のレベルで発見された場所です。この線をできるだけ多く測定して、広く面の汚染地図をつくることが目的です。このホットスポットは番組の続編によれば、安全と考えられていたいわき市でもホットスポットが見つかり、また原発の立ち入りを禁止区域のすぐそばでプルトニウムを少量発見しています。

  測定した木村真三氏はチェルノブイリの汚染を測定した研究者で、このかつての結果から判断して、例えば一軒一軒の住居毎に測定する必要があるといっております。この報告が放映されたあとで測定の依頼もあったということです。

  このホットスポットはチェルイノブイリの原発事故で放射線量の高く、義務的避難地域のレベル2と同じです、にもかかわらず、情報がなく住んでいる人さえいるのです。

  このホットスポットの発見により、測定場所を広げる必要が明らかになり、今後できる限りの測定点を増やしていく必要があります。

この測定は研究者レベルから公的レベルに移行される必要があります。このホットスポットは「ただちに健康に影響を及ぼす恐れがあり、ただちに避難が必要」だからです。現にこの地域では自主的を含めて避難がなされています(ただしやむえない事情で残っている人々もいます)。いまだに自治体にも国にもその動きはありません。

  このような状況の中で東京や千葉、茨城にもホットスポットがあるという週刊誌の記事がでました(週刊朝日 6月17日号)。

  身近な首都圏で国際放射線防御委員会(ICRP)が定める一般人の年間被ばく上限値1ミリシーベルトを越える場所があり、東ほど高い値だというのです。

  日本共産党都議団と専門家の測定の結果です。地上から1m、10秒間隔で10回測定の平均値です(自ら測定法の基準を設定しています)。

  この記事では、元原子力安全委員会専門委員で中部大学の武田邦彦氏が、放射線を発する元素をホットアトムといい、そのホットスポットが集まる場所をホットスポットといいます」。

  氏は福島原発事故を引き起こすに至った原子力安全の要の組織に関わってきた方です。

  氏のホットスポットの定義は木村真三氏が呼んだホットスポットとは異なるようです。この週刊誌の記事では、住民が自分で測定器で身近な環境を測定する正しい測り方も紹介しています。

  また武田邦彦氏の勧める方法で家庭の除染を行い我が子を守ることも勧めています。しかしこの記事は引用するグラフや表の説明や解釈には明確でないところも見受けられ、木村真三氏が見出したホットスポットについては触れてはおらず、ICRPの上限値を越えた場所では、避難すべきかどうかなどにも触れていません。 「ホットスポット」をいささかセンセーショナルに取り上げて記事にした感じがしないでもありません。

■常套句「ただちに健康に影響を与えるものではない」

  木村真三氏が見つけた場所は浪江の赤宇木(あこうぎ)ですが、文科省はすでに述べましたように、この地区が高い放射線量をしめしていることを突き止めて、定点観測点としてデータを取っていました。

  しかし測定値のその地点が官邸に伝えられても、枝野官房長官は、風評被害を恐れて「ただちに人体の健康に影響を与えるものではない」と述べて、公表しませんでした。必要で重要な情報を当事者に伝えない政治判断だったわけですが、許されることとは思われません。

  海外のメディアが称賛した大災害に冷静に対応した日本のパニックは起こしてきませんでした。正しい情報を提供してこそ災害に立ち向かうことができるはずです。正しいデータを示すことで国民は自らを守る対応ができますが、これを欠いた情報ではまさにいわゆる風評で危険を感じて避難した住民が少なくありません。これを風評被害ということはできません。頼るべきデーがなければ自らを守るために行動をせざるを得ません。

  浪江の赤宇木の例は明らかな政府の情報隠しです。加害者が政府の情報災害ではないでしょうか。原発事故は明らかに人災ですが、政府はその人災の上塗りを行っているのです。

  枝野官房長官だけでなく、NHKの解説員や事故関係者は事故の数値を報道する時の「ただちに----」を常套句としました。

  「それはいつまでしょうか」と問うべきですがところですが、NHKの大越健介キャスターからこの問いを聞くことはできませんでした。

  それだけではありません。「それではただちに影響をうける値とは?」と問われてそれは分からないと厚労省の担当官が答えたことも報じられています。

  これは校庭・校舎などの利用範囲の値に年間20 ミリシーベルトを政府が押しつけたので、心配した母親たちが撤回を要求した時ことでした。

  この母親たちの強い反対運動などの結果、年間20 ミリシーベルトはそのままにして、年間 1 ミリシーベルトを目指すとされました。

  しかしこれはゴマカシだ。目指す条件にある「今年度は」汚染された3月を含まず、「学校においては」は、始業時から終業時までで、残りの16時間は含まない。また校庭で1時間当たり3.8マイクロ シベルトをこえた場合は屋外活動を制限し、土壌汚染をすれば達成されるとした机上の結果と指摘されています(週刊金曜日 2011.6.3 スクープ)。

  政府のこの数値を知った内閣官房参与の小佐古(こさこ)東大大学院教授は、辞表を提出しました。小佐古教授は、放射性安全学の専門家で、「原発労働者でさえ年間20 ミリシーベルトの放射線量にさらされることはまれです。私は子どもたちがそんな被ばくを受け入れることはできない」と涙ながらに訴えました。( 小佐古教授かつて原発推進派だったといわれています。)

  この小佐古教授の辞表のニュースは、日本発信のものではなく、「福島原発事故 海外での報道」の一つとして、原子力がエネルギーの80 %を占めるフランスの代表紙 「ルモンド」(世界、人間)の5月20日の記事「フクシマ:おずおずと明らかにされる事故の帰結」から引用したものです。ルモンドは政府から独立したフランスのジャーナリズムです。

  この一連の「福島原発事故 海外での報道」は現在4記事報道され、いずれも日本語訳が入手できます。

  「日雇いで放射能に立ち向かう労働者たち」は4月9日のニューヨークタイムスの記事で、ヒロコ・タブチが書いています。

  彼女のカタカナの名から判断して日本女性でしょう(東京在住です)。彼女は原発事故に遭った労働者の1人で、実名を明かしたマサユキ・イシザワに直接取材しています。

  彼は、かつての職場の信じがたい実態を話しています。

  その記事によりますと:

  彼は東電の下請けの孫請けの階層構造の最下辺のいわゆる原発ジプシーで、未熟練の臨時雇い。高い賃金に釣られて働いていた。原発の安全は彼らの肩にかかっている。原子力安全・保安委員会によれば、東京電力の社員の16倍レベルの放射能にさらされていた。実際の被ばく量はおそらく誰に知り得ない高い量になっていたという。

  彼は今は職場を去っているが、「よほど飢えていれば。いつか戻る日が来るかもしれない」。 これに付け加えて「仕事は必要だ。ただし安全な仕事をね」と話した由。

他の2件はドイツのミュンヘンのレイチャル・カーソン・センターの副所長が書いた「フクシマ後の原子力時代-エピローグに向かうのか?」とドイツ放射線防護協会の「日本における放射線リスク最小化のための提言」2011年3月20日です。

■プルトニウムとミッキーマウス

  Photo さらにもう1記事見つかりました。イギリスの有名なエコノミストの3月31日の「プルトニウムとミッキーマウス と題した記事です。福島第一原発の三号機はMOX(プルトニウムとの混合核燃料)を核燃料として使用していることを重視し、また東京電力のロゴがミッキーマウスの突然変異体だとして紹介したのです。イギリスらしい皮肉の効いたウイットです。Photo_2 このロゴは、英語の記事には、東電の社長以下が謝罪で頭を下げている写真がありますが、青い作業服の胸にこのロゴが見えます。

  このエコノミストの記事で、日本は経産省が推進と規制の両面を管轄し、安全性について責任を負いながら推進を図っている制度上の問題をことを的確に指摘しています。

  そして最後に

「日本は原子力災害を抱え込んだが、単なる東京電力の罪ではない。日本全体の罪なのだ。厳しい指摘です(罪と訳された英語はfaultで欠点、誤り、落ち度の意味もある)。一層信頼に値するエネルギー戦略を求めるなら、まずその国民的なレベルで失敗を認めることから始めなくてはならないだろう」と結び、東電と政府だけではなく日本国民に問いかけています。

  日本の原発事故のニュースは、海外のメディアに逐一詳しく流されており、ここに紹介した日本語に訳されたニュースのごく一部に違いありません。

  ここに紹介した記事はいずれも今回の原発事故の本質を突いており、日本における政府、東電およびメディアの報道のスタンス、つまりは西欧では常識となっている報道の自由と透明性に欠ける実態を明らかにしたものです。これをすなわち日本の情報災害です。

  この第四の日本の「情報災害」を災害としない道はといえば、情報の隠ぺいや頻繁な変更をなくし、正確な情報を国民にただちに知らせるなどを遅滞なく行うことです。

  現状では絶望的な事と思われますが、それでも国際原子力機関(IAEA)の調査に促される形で福島原発の報告書が作成され、IAEAに提出されたものをみますと、政府は原発の不備を認め、保安院の独立化、原子力の規制と推進の分離などを図るなどとしています。

  しかしこの報告書作成自体が、重要な決定などを、いわゆる外圧に頼ってきた歴史の繰り返しとみることができます。

  ただしIAEAは核の番人であると共に原子力の平和利用促進の機関でもあり、安全な原発の推進する立場でもあります。脱原発を目指したものではないことに注意を向ける必要があります。

防災計画のための最悪のシナリオ

  このブログを投稿した直後に、政府が原発マニュアルの全面改定に着手したというニュースが入りました(2011/6/9)。

  このマニュアルはこれまでにも逐一改定されてきたものの、今回の複合災害では初期段階から全く役に立たなかったためです。このニュースの解説には、改定作業の最大の課題は指揮系統などをどう立て直すかとあります。

  しかし具体的な対応もさることながら、本質的な課題は、巨大災害の防災については、最悪のシナリオをまず検討し、災害ごとの骨格を明らかにして、これに基づく具体的なマニュアルなり対策を立てるのが極めて重要ではないかと思います。

  この最悪のシナリオ作成には、過去の災害の規模や範囲などの調査が基礎になります。その歴史的な調査に基づく防災計画立案では、過去の規模を最大とするのではなく、その幾倍とすべきかが重要です。例えば地震の規模のマグネチュードでは9.0プラスXとし、このXをどう定めるかです。津波では海岸から陸地に到達した距離のプラスXです。

  この最悪のシナリオについて、徹底した検討を行った上で、経済性や実行可能性なども考慮し、具体的な対応の施策などを進めていくのが順序ではないかと考えます。

  この最悪のシナリオは、防災の「基本的な理念」と言い換えてもよいでしょう。

  最悪のシナリオは、今回の三大災害の収束を求める場合でも必要ではないでしょうか。後から後から修正や改正を繰り返す前に最悪の事態を想定し、今後の実際的な具体的展望を描いていくべきではないかと思うのです。

■メディアの情報を修正させる

  情報災害として取り上げる性格のものではありませんが、福島第2原発における死者数が同じメディアで食い違っていることに気づいて訂正させました。

  朝日新聞の速報版であるインターネットのRSS asahi.comに原発事故による関連の死者は3人とする枝野官房長官の談話が載りました(4月12日、下の記事)。

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   一方新聞本誌に二三日ごとに掲載される「主な被害状況」の地図には第一原発の4号機で東電社員2人の遺体が発見、第二原発ではクレーン作業で作業員2人死亡とありました。

前の2人は、巨大津波が原発を襲った時に作業中に巻き込まれて建屋内で死亡した後、遺体として発見されたものです(3/30 週刊朝日スクープ)。

  ところが第二原発における作業員の死者は本誌では2人と1人多く、同じ朝日新聞系の報道で違っていました。

  たかが1人の違いといって済ますわけにはいかないとして直接電話で質問したのが5月31日。返事は三日後の6月2日にありました。結果は本誌のデータが誤りとのことでした。

  訂正は6月5日の版でひっそりと修正されました(下)。

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  作業員は原発事故にかかわらず氏名が明らかにされずに報道されることが多いのが日本のメディアです。

  これに対してニューヨークタイムスの取材では、了承を得て実名で報道しているのとは大きな違いがあります。

  私はかつて地球上の人類を数回死に至らしめる量のシアン化水素を毎日生産していた工場で、新入社員の頃に運転担任として働いていたことがあります。これはアクリル繊維の1原料である猛毒の液体の青酸です(青酸は沸点が26℃の液体で、青酸カリはその塩です)。

  現場ではいわゆる「作業員」としではなく、生身の人間、労働者として共に働いていたのです。

安全神話は安全の失敗

  母の遺作展の最終日の日曜日は前日から一転して晴れあがり、三百人はギャラリーに立ち寄られたと思います。期間を通しては、ざっと二千人になりましたでしょうか。

  母の水彩画のファンの女性も大阪から駆け付けてくれました。彼女は企業の男女平等を目指して活動している、ワーキング・ウイメンズ・ネットワークのメンバーで、国連にもアピールしてきている国際派です。たまたま私の参加する環境教育研究会のリーダーも来られ、紹介させていただきました。ひっきりなしに来られる観客への母の絵のコメントに追われてゆっくり話す時間はわずかでしたが、遺作展の最終日を飾って戴きました。

  夕方には長男一家5人が来廊。小学校三年生の女の子と二年生の男の子と一歳と二か月の孫です。二人は曾祖母の絵のアンケートを書いて帰りました。孫娘:

900k  「プリムラ」;色のうすいところやこいところがよくかかれている。色のぬりかたもうまい(左)。

  「  サクランボ」;小さなまんまるのサクランボがとてもかわいい。

  「ふくろう」;大きながようしにちいさなふくろうは、とてもさびしそう(下左)。

  「ダルマとフクロウとコこま」;いっそこどもの900k_3 ようにみえるが、よくみるととてもすばらしいえだ(右)。

  「折り紙の雛人形」;ひな人ぎょうがかわいらしくよく書(ママ)かれている(下左)。

 

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「母の眼」;○。

曾おばあちゃんの絵はしっかりひ孫に伝わったようです。

  900k   一方弟の方は要領よく全部の絵に丸を入れていました。

 

  ところでこのところ原発「事故」(東電は「事象」と言うそうです)による放射能汚染が心配でなりません。長男の勤務するドイツ系企業は、原発「事象」の四日目に東京の事務所を大阪の事務所へ移転させました。一家も後を追ってホテルの避難所暮らしを強いられました。今は東京に戻っています。

  ISO活動でインタネットのSkypeで話す機会があり、余談で原発事故のことに触れると、話好きのベンツの元技術者が「東電の事故では精々二三百メートルしか放射物質は上がらなかったが、チェルノブイリは数千メートルも上空に昇り、ヨーロッパを広く放射能で汚染した」。

  ドイツ系企業の放射線に敏感な理由を納得しました。放射線は幼い子供のがんのリスクが高いといわれます。幼い発育が盛んな子どもほど分離して増殖する細胞が多く、そこに放射線があたると染色体切断などの異常があらわれ、それが複写されていくとがんに行きつくといいます。

  このがん化の放射線量に閾値(限界値)があるかどうかは、学者によって異なるといいます。閾値はないと考える米アカデミーに閾値があるとするオックスフォード大の研究者(柳澤桂子/生命科学者)。大方の学者・研究者は、閾値がないと考えているようです。

  とすれば、低い放射線の暴露でも、積り積って暴露が長くなればリスクが大きくなるはずです。

  一方で低線量の放射線は「むしろ体にいい」と説いたのが元東電副社長・元参議院議員の加納時雄です。なぜこんな放言がまかり通るかといえば、いうまでもありません。原発事故以前の東電のここ数年(2006年~2010年)の純利益を見れば明らかで、年平均が1,075億円でした(決算書)。

  ところで原発事故を報ずるNHKなどの放送メディアでは、放射線暴露量のニュースの解説に登場する、その道の「専門家」や枝野官房長官は、「ただちに健康に影響を及ぼす数値ではありません」と答えています。

  小中高の子どもを持つお母さんたちがこれを心配して、政府へ公開質問状を出しました。その答えの説明会の席で、記者が「ではどれだけの量が影響するのでしょうか」と質問したところ、厚労省の担当官は「どのようなレベルかは分からない、後になって影響が出るかもしれない」などと述べたそうです。恐るべき無責任さです。

  これに付け加えれば「では、その後とはいつまでなのでしょうか」と問いたいところです。正しい答えが期待できそうにもないでしょうが。

  いずれにせよ、こんな言い方をする専門家や政治家を信じることはできないでしょう。子どもたち、特に幼い子を持つ親や孫を持つ者には、このような自称専門家や政治家を持つこの国は不幸です。

  現状では放射能による汚染で危惧される地域は東電の第一原発から30km以内とその外側の限られた地域です。この地域の妊婦や子どもたちは避難しているでしょうから問題はないでしょう。

  といっても局地的には学校の運動場などの土が地表を覆っている所は、屋外の活動が制限されています。

  教室内で「写生」をしている写真を新聞で見ましたが、子どもたちをこのような状況に追い込んだ原発事故の無責任さに腹立たしい思いをしているのは私だけではないと思います。

900k この二枚の写真は、母の遺作展に保護者と共に訪れた幼な子たちです。Photo

 

  この子たちの未来は断じて守られなければならなりません。

  人々の命に野菜、魚、そして大気と土壌を汚染し続けている東京電力は、もはやこの事象の犯罪者だといって差し支えないのではないでしょうか。

  しかもすぐには見えない災害をもたらしている、これまでに例をみない犯罪だ思います

  低線量の放射線の被ばくは、サドン・デス(突然の死)でなく、スロウ・デス(穏やかなる死)と警告した米ピッツバーク大教授の1977年の報告書があります(世界 2011年5月号 経済評論家 内橋一人)。

    どんなに暴露量がリスクが小さく、例えば0.0001% でも(100万人に1人)、いったんリスクが現実になれば当人にとってそれがすべてです。

  「正しく知って放射能を恐れる」。メディアにしばしば登場しています。しかし正しく知って、理解しようにも、正しい情報は不足し、しかもその情報が正しいか判断できず、多くの国民は流される情報に疑いを持っているのが実態です。

  くるくると二転三転する東電の説明。データ公表の遅れだけでなく隠ぺいと後出し。そして測定データの不足です。放射線の線量計の数さえ不足しています。これまで自民政府と結託して原発の「安全神話」を国民に信じさせて、成功させてきた東電です。そのやり方はPA(パブリック・アクセプタンス-社会に受け入れられ、認知を求めるための働きかけ)戦略と呼ばれました(前掲内橋一人)。

  この原発の「神話」は、英語でミス(myth)、日本語ではミス(miss)の訳「失敗」に通じます。そう解釈するのが正しいといったら、「そりゃ無茶苦茶な」。

  いや「これはブラックユーモア」だといっても正気を疑われでしょう。でもそうとも言えないようです。偶然でしょうが政府が立ち上げることになった原発事故調査・検証委員会の会長は「失敗学」を提唱した畑村洋太郎東大名誉教授です。

  さて委員会は原発の安全神話はどう取り上げ、検証するのか注目が必要です。

  先に話しましたISO関係者との5月28日のSkype 会議で、インドのコルカタ大の教授が大災害の最近の状況を訊きましたので、「日本は新たに第4番目の災害に悩んでいる、もうそれは情報災害だ」。

  政府および加害当事者の情報が信じられなくなっている状況を話しました。

  このような状況では、発言しまたは発信する人物については、原発推進側かどうかの判断する必要がありますが、すでに国民はその人物を見抜くことができるほどの経験を積んできていると思います。

  メディアの提供する情報や発言などをじっくり判断した上で、最悪のケースを考え、覚悟を決めて対処していく。そんな対処が最適とは言えないまでも必要ではないかと思っています。

  最後になりました。母の水彩画の収益の義捐金はパレスチナ子どもキャンペーンに送らせていただきました。

  このNGOはパレスチナのガザ地区の子どもたちの支援団体ですが、3・11の大災害の被災地、岩手県大槌町の子どもたちの支援を始めました。

Photo  大槌町は、死者・行方不明者が人口の一割を超えて1,720人に達し、町役場など中心部は津波に襲われ、町長も犠牲となった町です。

  パレスチナ子どもキャンペーンが、今年の1月にガザ地区の農業開発委員を招へいしたので現地での活動を聞く機会がありました。その時に会の女性代表者と言葉を交わしたのが縁になりました。

  義捐金は公的機関でもよいのですが、目に見える団体とすることにしました(義捐金は母の数百枚の絵葉書や画集の収益の¥50,000)。

  この母の水彩画による義捐金は、大震災の被災地の炊き出しなどに使われているはずです。自らは被災を免れて旅立った母の遺作は縁あって故郷東北の被災地の救援に役立ちました。

  義捐金を出して戴いた方々のお礼かたがた、このブログをかりてご報告させていただきます。ありがとうございました。

 

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